1 まず、おれのことを少々


 十四歳の頃、真っ黒なオス猫を拾った。近所の道ばたで、情けない声で鳴いていたのを家へ連れて帰った。気の利いた名前を付けてやろうと考えている間に、母がクロと呼び始めた。母は、そういう人だ。黒い猫の名はクロ。おれは文句を言ったが、結局、代案は出せなかった。

 クロは用意してやった椅子とクッションを無視して、数時間おきに居場所を変えた。台所兼食堂、おれの部屋、母の部屋。狭い我が家の、あらゆる場所で物思いにふけり、眠った。やがて半年後、自分の居場所はここにはないと判断したのか、クロはどこかへ行ってしまった。おれは十五になっていた。彼が何歳だったかは知らない。

「うちが気に入らなかったのかな」

「男の子は家を出て行くものなのよ」

 ある夜、クロの思い出話になった時に母が訳知り顔で言った。母を残して家を出ることなど、考えたことはなかった。早く稼いで、母を助けたいと思っていた。

 母は、昼間はカフェで、夕方から深夜過ぎまでは酒場で働いた。いつも疲れていた。それなのに、おれが仕事を見つけると、なんだかんだと理由を付けて止めた。おれが患っていた病気が原因なのだと思う。心臓だ。しかし、五歳の時に手術を受けて問題は解決したはずだし、その後は快調そのもの。おれ自身は、すっかり健康なつもりでいた。

「ねえ、やっぱり働きたいんだ。そしたら、母さんも少しは楽になるだろ?」

「ありがとう。でも、あと二年。十七になったらね」

 母は、ゆるやかにうねる、美しい、けれども煙草たばこ臭い金髪を指先でもてあそびながら言った。

「どうして十七?」

「クロもきっと十七歳だったから」

 理屈も何もなかった。、働くことと家を出ることが、同じ意味なのか。きちんと話し合うべきだと思ったが、酔った母との会話は苦痛だった。

 半年ほどして、通りでクロを見かけた。いや、クロらしき猫を。片耳の先端を無くし、全身傷だらけのノラ猫と化していた。クロと呼ぶと、面倒くさそうにおれを見た。しかし、すぐに視線をそらして歩き出す。追うと、振り返りもせずに近所の家のへいに登り、そのまま屋根まで上がってしまった。もう手が届かなかった。

 働きたい、ちょっと待って──定期的に同じ会話が繰り返された。友人たちはたいてい働いていたし、そうでなくても、自分の小遣いくらいは稼いでいたはずだ。みんなでおれを屋根の上から笑っているような気がした。


 ミッドガルの六番街。商店や飲食店が建ち並ぶにぎやかな通りが終わるあたり。我が家は、本屋と武器の加工屋に挟まれた、湿って、さびくさい路地を抜けたところにあった。レンガに似せた建材で作られた、子供が描くような単純な形の家がひしめき合っていた。ミッドガルが完成してしばらくはしんカンパニーの下級社員向け社宅エリアだったらしい。後に社宅は七番街と伍番街に移された。取り壊されるはずだったその一帯を、酒場を何軒も経営する金持ちがしんから借り受け、自分の店の従業員を住まわせた。家賃は格安だった。かい、つまり、地方やスラムから成功を夢見てミッドガルに来た人たちが大勢暮らしていた。皆、貧しかった。比較的裕福な人々が住むミッドガルにできた吹きだまりのような場所だった。それでも、スラムに住むよりはマシだと、誰もが思っていた。


 十七歳になる一週間ほど前だった。電話の音で目が覚めた。母が誰かと小声で話すのが聞こえた。起きると、母が台所兼食堂をかたづけていた。掃除とせいせいとん、つまり、家の中の秩序の維持はおれの仕事だった。教師の家で学び、友人たちと話す。街をうろつく。映りの悪いテレビを眺める。他にはほとんどすべきことのないおれの、唯一の生活へのこうけん。手を抜いたことはなかった。昨日、やっておいたと抗議すると、母は、これから客が来るのだと告げた。

「会って欲しいから着替えてくれる?」

 母はおれを見ずに言った。嫌な予感がして、それは当たった。


 ニックス・フォーリーは母と同じ三十半ばくらい。長身を、仕立ての良さそうなグレーのスーツに包んでいた。淡いピンクに白のドットが入ったネクタイの上には、小さく、たんせいな顔が乗っている。戸口に立ち、人のよさそうな微笑ほほえみを浮かべておれを見おろしていた。

「ニックスと呼んでくれ。しんカンパニーの業務部だ」

 ほら、これでもう、ぼくたちは友達だろ? そんな笑顔と自己紹介だった。実際、気を抜くと、本当にニックスと呼んでしまいそうだった。

「へえ、きみはお父さん似なんだね」

 自分で言ったくせに、ニックス・フォーリーは、しまったという顔をした。

「父を知っているんですか?」

 父親はおれが生まれる直前にウータイで死んだ。写真は一枚もなかったから、おれは父の顔を知らない。

「いや、お母さんにはあまり似ていないって意味だったんだ。事情は聞いていたのに──悪かったよ。でも、ハンサムだよな。もてるんじゃないか?」

 おれは毒虫でもんだような顔をしたのだろう。ニックス・フォーリーは助けを求めて母を見た。

「ニックスのお土産を食べない? トスカさんのケーキ!」

 派手な音を立ててテーブルに皿を並べ、そうしょくじょうなケーキをせた。母は給料が入った時だけ、トスカばあさんが作る、バカ高い、砂糖とクリームのかたまりを食べる。自分へのごほうだと、ゆっくり時間をかけて。

「さあ、二人とも座って」

「やあ、ついにご対面だ。このケーキのことを聞いてから、一度食べたいと思っていてね。普段は甘い物なんか全然興味ないんだけどね」

 どうでもいいことを話しながらニックス・フォーリーはおれの席に座った。死ねと思った。母の顔から笑顔が消えた。テーブルの周囲には、椅子が三脚ある。残りの二脚のうち、おれは、敵の正面に座った。母の席だ。母は滅多に使わない客用の椅子に座る。凍りついた空気にニックス・フォーリーも気づいたのだろう。大きくため息をついておれをえた。テーブルにりょうひじをついて顔の前で手を組む。

「もっと早くに、きみと会っておくべきだったと思う。でも、なかなか時間が取れなくてね。結局、こんなギリギリになってしまった。ぼくのことは聞いてるだろう?」

 ニックス・フォーリーは母を見た。母は、ごめん、話せなかったのと消えそうな声で言った。

「──参ったな。でも、もう、手配は済んでいるから出発は動かせないよ。二日後に、ぼくたちはミッドガルを発つ。準備をしておいてくれ」

「どういうこと?」

「お母さんとは何度も話したんだ。やっぱり、きみも一緒に行かなくちゃだめだ。家族なんだからね。ぼくはこれで帰るけど、詳しいことはお母さんから──」

 おれはテーブルの上のケーキを皿ごとなぎ払うと床をって立ち上がり、そのまま家を飛び出した。


 皿が割れる音が耳に残っていた。らしくないことをしてしまったと思う。気持ちが落ち着いたら、帰って、母と話そう。知らないことが、たくさんありそうだ。それにしても、二日後の出発とは? いったい、どこへ? いや。どこだろうと、おれは行きたくない。あの男と一緒になんか、どこへも行かない。

 二日間、時間をつぶすことにした。時が過ぎてから家へ帰るのだ。そうすれば、ニックス・フォーリーと母の計画はつぶれる。多少気まずいことになるだろうが、仕方がない。そのうち日常が戻ってくるはず──そんなことを考えながら七番街を歩き、八番街の倉庫エリアへ向かった。家出をした十代の、定番の落ち着き先だ。


 そしておれは、例の、七番街落下事件にそうぐうした。巨大な、えんばんじょうのミッドガルの、とてつもない重量を地上から持ち上げている何本もの支柱。そのうちの七番支柱がテロリストどもに爆破されたあの事件だ。支えを失った七番街プレート全体が、両サイドの六番街と八番街から切り離されて落下。直下のスラムを押し潰してかいめつした。大勢の命が失われた。

 爆発の瞬間、おれは七番街と八番街の境界にいた。衝撃で街が揺れた時、とっさに八番街方向へ逃げた。直後は何が起こっているのかわからなかった。ちゅうで人の流れに従って走った。やがて七番街が崩落したことを知った。六番街は無事だという情報もあったが、確かなことは何もわからない。母が心配だった。中心部のぜろばんがいを経由して家に戻ろうとした。しかし、そのルートは、テロリストを警戒する神羅軍によってふうされていた。仕方なく、八、いちと、逆周りで戻ることにした。人々は、次の爆発はどこだろうとおびえていた。頭のおかしいテロリストどもはついこのあいだ、いちばんこうを爆破したばかりだった。


 ミッドガルをほぼ一周して家に帰り着いたのは三日後だった。最短距離を不眠不休で歩けば一日の行程に三日かかったわけだ。おれは、不案内な八番街で迷い、焦り、走り、汗をかいた。やがて、夜。倉庫と倉庫の間を抜けてきた冷たい風が、ようしゃなく体温を奪う。最初は腹痛。続いて発熱とかん。我が身の軟弱さを呪いながら、横になる場所を探した。そしてやっと、空き倉庫を見つけて、放置してあったマットレスに倒れ込んだ。すると、どこからか、目付きの悪い連中が現れた。おれと同世代だったが、おれが飼い猫だとすれば、やつらはノラ猫。連中は、場所代を要求した。このあたりのしきたりだと主張した。しかしおれは、金もみつぎ物も持っていなかった。結局、代価は、奴らの不満のはけ口になることで支払った。蹴られた背中と腹が痛んだ。

 一晩寝ても体調は回復しなかった。しかし、もう宿泊料は払いたくない。母が心配というよりは、ただただ家に帰りたい一心。気力を振り絞り、ノラ猫のそうくつを出た。

 ふらつきながら歩き、休み休み、なんとか三日目の昼過ぎに帰り着いた。家は無事だった。母は留守だったが、いつもどおりなら店にいる時間だ。風邪薬を飲んでベッドへもぐり込む。起きたら母の顔を見に行こうと考えながら眠りについた。目覚めると夜になっていた。体調はまあまあ。酒場まで行って戻るくらいなら大丈夫だろう。まず、シャワーを浴びた。タオルで身体をいて自分の部屋に戻り、下着を身につけ、黒いズボンを穿く。上は体型を隠せる大きめのセーターを選んだ。色はこん。おれの服の中で最も大人に見える組み合わせだ。背だけ伸びて薄っぺらい身体は、酒場ではちょうしょうの的。ガキはミルク飲んで寝ちまいなという決まり文句を浴びせられるのがオチ。

 出かける直前になってベッドの乱れが気になった。薄い毛布のシワを伸ばし、枕を整えていた時、下に置いてあった封筒に気づいた。中には大金と、母からの手紙が入っていた。おれは手紙を読んだ。予定通りニックスと一緒に行く。行き先は落ち着き次第連絡する。封筒のお金で暮らし、電話を待て。半分は新しい家までの旅費として残しておくように──かんぺきに事務的な内容だった。七番街の事件が起こったのはおれが家を飛び出した日。当然母も事件と被害の大きさは知っていただろう。それなのに、息子のあんも確認しないまま男と旅立った。しかも、連絡先を教えれば、おれが飛んでくると考えているらしい。理解できなかった。


 母の部屋へ行き、クローゼットの扉を開く。ハンガーには、昼間の仕事用の、少し若作りの服が何着かと夜の仕事用のいまいましい服が数着かけられていた。母は仕事も捨てたらしい。いつもはその下に乱雑に積まれている普段着が無くなっていた。しばらく母のベッドに座り、ぼんやりとしていた。そして、ふと、てんじょううらに隠された、我が家の秘密を思い出した。

 食堂から椅子を運び込んで、部屋の中央に置いた。その上に乗って手を伸ばすと天井板の一枚が外れる。静かにベッドの上に放り、ぽかりと空いた四角い穴を見上げる。母はそこに宝箱を隠していた。中には、金と宝物が入っている。金は毎週もらう給料で、宝物は、おれにまつわる「初めての品々」だ。へその、初めて切った髪、最初に抜けた乳歯──気持ち悪いとしか思えなかったが、母にとっては何物にも代えがたい宝物らしい。

 手を突っ込むと宝箱が指先に触れた。奥へ押し込んでしまったらしくつかむことができなかった。両手で隣の板の縁を掴むとけんすいの要領で身体を持ち上げた。頭を突っ込んで確かめるつもりだったが板が割れた。おれは落ち、椅子の上でバランスを崩し、転びそうになりながら床に着地する。目の前に、割れた天井板と宝箱、さらに、紙袋が二つ落ちてきた。宝箱──元はチーズの木箱だ。おれが幼い頃、好物だった紫のリンゴをクレヨンで描いた──を開くと数々の宝物は、ちゃんと入っていた。給料の残りらしい金もあった。つまり、枕の下にあった金は、ここにあった金ではない。では、どこから来た? ニックス・くそ野郎・フォーリーの財布か?

 次に見慣れない紙袋を開く。白く、新しい。中を見て驚いた。目もくらむほどの、という形容がふさわしい額の金が入っていた。楽に一年は暮らせる。おびふうたばねられたへいは、袋と同じく、新しかった。帯封が緩んだ札束があった。枕の下の金は、ここから出たらしい。おれは疑問の答えを見つけた気になり、納得しかけた。が、問題の本質は、もちろん、そこではない。そもそも、この紙袋の大金はどこから来たのか。やはり、あいつしか考えられない。ニックス・リッチ・フォーリー。

 もうひとつの紙袋は淡いグリーンの、厚手の紙で作られていた。口のテープをがすと、中にはげ茶の、革製のかばんが入っていた。フラップ式のふたを金具で止める頑丈な作りで、軍用かと思うほどに無骨だった。長さの調節が可能なストラップが付いている。大人の男の、しかも、タフな冒険者を思わせるショルダーバッグだ。フラップを開くと中に小さなカードが入っていた。

「十七歳の誕生日おめでとう。この鞄が似合う、強い男性になってください。母より」

 誕生日プレゼントを用意し、それを隠したまま出て行った母。見栄えの良い男と一緒に消えた母。残された大金と息子。何がどうつながり、交わるのか。おれは母のベッドに座り、考えた。しかし、正解には辿たどり着けないような気がした。いずれ母から連絡が来る。その時まで待つしかないのだろう。とりあえず、天井を直しておくことにした。

 割れて落ちた天井板を持って椅子に乗り、元の場所に戻す。次に、最初に外した板。これがうまくはまらなかった。作業をしているうちに腕がだるくなる。気が立ち、やがて、考えまいとしても、頭から追い出せない、腹立たしい事実に向かい合うしかなくなる。母は背が低く、椅子に乗っても天井に届かなかった。身長が母を追い越した頃に、天井裏を収納として使うことを思いついたのは、おれだ。以来、宝箱の出し入れは、おれの役目だった。そのせいで、母の給料や、残額、我が家の貧しさを知っていた。

 さて、問題です。たった今見つけた、大金や贈り物は誰が天井裏に入れたのでしょうか?

 玄関でおれを見おろした、背の高い男。ニックス・インチキ・フォーリー。あの男が、おれの留守中に、母の部屋に入ったのだ。

 おれは作業を放棄して玄関脇へ行き、壁に掛けてある電話機からケーブルを引き抜いた。おれの怒りを思い知るがいい。


 なんとか日常を取り戻そうとした。教師のところへも通ったし、友人たちとも語らい、テレビも観た。金を派手に使おうかとも思った。が、ニックス・フォーリーの金かもしれないと思い、止めた。いや。本当は、使いみちが思いつかなかった。結局、金は誕生日プレゼントのバッグの中に放り込んで忘れることにした。

 眠れない夜が続いた。ある晩思いついて、本を読んでみることにした。読書は母の唯一の趣味だ。母の部屋には読み終えた小説が何冊もあった。その中から「ウータイからの脱出・上」を選んだ。理由は一番端にあったから。それだけ。戦争中に書かれた古い小説だった。冒頭からしばらく、ウータイ人が奇妙な格闘技を駆使して収容所の捕虜たちを殺す場面が延々と続いた。やがて間の抜けたウータイ人のすきをついて捕虜が五人、収容所から脱出する。男三、女二。男がひとり余る。誰か死ぬのだろうと思った。おそらく、いけ好かないしんぐんの将校だ。しかし、予想に反して将校は生き残り、リーダー気取りで同行する四人に威張りちらす。早く死ねばいいと思った。最終ページ近くになっておれの願いはかなう。将校はウータイ人がき散らした地雷で粉々になって死んでしまう。そして、おれはその死に様に驚く。


「ウータイの地雷で粉々になって死んでしまった」


 母がおれの父親について語った唯一のエピソードだ。この小説から引用したのだろうか。死んで当然のような男とおれの父親を重ねたのか。おそらく、その通り。よほど嫌っていたのだろう。そんな男の息子を、よくも育てられたものだと感心した。いや。そんな男が残した子供だからこそ、いざとなれば、こうして置き去りにできたのかもしれない。愛されていると思っていたが、それは憎しみの裏返しだったのか。おれは「ウータイからの脱出・上」を壁に放り投げた。生き残った四人が下巻でどうなろうと知ったことか。

 母の部屋へ行き、改めて本のコレクションを眺める。冒険を題材にした小説ばかり並んでいることがタイトルでわかる。表紙を見ると主人公らしきイラスト。タイプは違うが全員女。そんな小説を愛した母。現実の生活にはない風景と冒険。そして、考えたくもないが、恋愛に胸を躍らせたのだろうか。おれとの生活はそれほど退屈だったのか。苦痛だったのか。

 もういい。母は出て行き、おれは残った。母のことを考えるのはよそう。一人で生きることを考えるのだ。

 翌日、母が働いていたカフェを訪ねた。四角い顔と広い肩幅が旧型ロボットを思わせる雇われ店長から、母が突然辞めたことに対する文句を延々と聞かされた。多少の覚悟はあったが、想像以上に効いた。しばらくあくたいをついてから店長は思い出したように用件をいた。おれは、仕事が欲しいと頼んだ。話の流れからして断られるだろうと思った。しかし、店長は、その場でオーナーに電話をかけてくれた。その心理がおれには理解できなかったが、母親の気持ちも知らなかったのだ。他人のことがわからなくてもまったく不思議ではない。

 意外なことに、すぐに働けることになった。オーナーが経営する全ての店にじゅうすべき飲料や食材を届ける配送トラック。その助手が、おれに与えられた仕事だった。前任者がしんカンパニーに職を得て、喜々として辞めていったばかりだったらしい。



 充実した日々だった。労働の喜びというやつだ。ガラリと風景を変えた日常を、おれは楽しんだ。もちろん、母のことを考えない日はなかった。それでも、四六時中、心を動かされる状態からは脱していた。電話のケーブルは、引き抜いてから十日ほどで元に戻した。もしかしたら、その間に、母は連絡を試みたかもしれない。留守中に電話が鳴っていた可能性もある。しかし、連絡方法は電話が全てではない。何もないということは、やはり、母はおれを捨てたのだ。でも、いい。母さん、お幸せに。おれはおれで楽しくやっている。トラックの運転手は、人使いは荒いが、おれを誰よりも必要としていることがわかった。そんな経験は初めてだった。重労働にもかかわらず、心臓にはまったく不安はなかった。そのことも、自信になった。どうだ、母さん。


 そんな毎日がずっと続くと思い始めていた。しかし、状況は激変する。番組の途中で勝手にチャンネルを変えられたようだった。ミッドガル上空にメテオが現れたのだ。天文学の常識を無視してとつじょ出現したすいせいだか、流星だかは、空にあいた真っ黒な穴に見えた。あと七日で世界は終わる。そんなうわさが流れた。北方やジュノンあたりでは巨大なモンスターが現れ、それはしんカンパニーが誇る兵器群を持ってしても倒せない。こうに隠れると安全だとか、カームの地下には神羅が作ったシェルターがあるとか、しんのわからない噂に街は混乱した。はっきりしていることはメテオが日一日と近づいてくることくらい。最初のうちは聞こえていた、メテオの正体と回避方法を巡る議論も、やがて消えた。

 オーナーは店を閉めてミッドガルを出て行き、隣近所も避難の準備をする人々で騒がしかった。友人、運転手をはじめとする仕事仲間たちが、一緒に遠くへ逃げようと声をかけてくれたが、感謝しつつも、断った。

 メテオを見て、生まれて初めて死を意識した。すると、考えることは、気まずい状況で別れた母のことばかりになった。家を出ると、母との繋がりが全て断たれるような気がした。数少ない、母と一緒に映っている写真を眺めてすごした。全ておれの誕生日に写真屋で撮ったものだった。小さなおれはどんどん大きくなり、母と並んだ。追い越した頃から、写真のおれはぶっちょうづらになる。母はいつでも微笑んでいた。その笑顔を見て、おれは己の愚かさを知る。母がおれを捨てるはずがない。すべきだったことが次々と浮かんできた。神羅カンパニーに行けば、ニックス・フォーリーの居場所がわかったかもしれない。電話はさっさと元に戻して、留守番電話に替えるべきだったのだろう。それに、考えようともしなかった、幾つかの疑問の答えに思い至る。屋根裏に残された大金の意味。どうやって手に入れたのかはともかく、金を置いていった理由は、すぐに戻るつもりでいたから。あるいは、おれに運ばせるつもりだったのかもしれない。こっちの方が、ありそうだ。長い間、別れて暮らすことなど、母の考えにはなかったのだ。誕生日のプレゼントのこともある。母は誕生日を大切にする人だ。あのショルダーバッグが、正しい日におれの手に渡るように手配するはず。手紙に書いておくとか、もっとわかり易い場所に置くとか。しかし、そうではなかった。なぜなら、やはり、すぐに連絡するつもりだったから。おれは黙って電話の前で連絡を待てば良かったのだ。労働の喜び? おれはバカだ。


 そして、迎えたあの日。こうエネルギー、即ち、ライフストリームが吹き荒れメテオを消し去ったあの日を、おれは生き延びた。その後、七日間、家で母を待った。七日目の夜、ふらりと外に出て、そのままミッドガルからスラムに下りた。


 これから、その二年後に始まる話をする。二年の間に体験したことも、少しはするだろう。話がわき道にそれないように、なるべく正しいルートを選びたいと思っている。しかし、すでに話したとおり、おれは選択が下手だ。辛抱強く聞いて欲しい。

 それから、時々、おれが知らないはずのことにも触れる。事実を下敷きにして、想像で補った。それは、例えば、こんな感じだ。


  2 事件はこうして始まった


 イリーナが入社した頃、クリフ・リゾートはすでに忘れ去られた保養地だった。巨人が岩を適当に積み上げたような荒々しい風景は確かに珍しい。自然のままの段差を利用して建てられた数々のロッジが風景にいろどりを加えたかもしれない。しかし、慣れてしまうと、他には何もない。一度訪れて記念写真の数枚でも撮れば十分。再訪などあり得ない。しんカンパニーは各地に保養所を持っていたが、ここは誰が見ても失敗作だった。

「なんだかな──」

 ほんの二年前まで世界の大部分を支配していた巨大企業、神羅カンパニー。そのトップである社長がこんなさびれた場所で過ごさなくてはならないことがイリーナには不満だった。病気療養中。セキュリティ上、街から離れていた方が安全。離れているといっても車で二時間ほどなのでスタッフの往来が楽。理由は幾つかあったが、えない場所であることに変わりはない。社長の発案でクリフ・リゾートからヒーリンへと改名されたが、何が変わるわけでもなかった。

「あーあ」

 ここでは何も起こらない。広場には幾つかのベンチが置かれ、せいこんしょうこうぐんかかった者たちが座り、談笑し、ある者は苦痛に耐えながら療養につとめていた。昨日と同じ、おそらく明日も同じ。天気でさえ、ほとんど変わらなかった。


*  *


「イリーナが退屈しているようだな」

 ルーファウス神羅はロッジの窓から離れながら部下のツォンに言った。

「そろそろ次のプロジェクトに移りたいが──」

 ルーファウスは言葉を切り、苦労して車椅子に戻った。

「はい。イリーナには近々伝えます。しかし、レノとルードにはまだ内密にしておくつもりです。新プロジェクトの方が刺激的ですからね。内容を知ると、街での仕事がおろそかになりそうで」

「わかった。ジェノバの情報は集まっているのか?」

「いいえ、まだ」

 宇宙から飛来した異形の者ジェノバ。それが今現在、どのような姿なのか誰も知らなかった。干からびた肉片なのか、それとも不気味な生物の姿をしているのか。しかし、もし、近くにそれがあれば──あるいは、いれば──絶対にわかるだろうとツォンは信じていた。

「ところで社長。あれを見つけた後、どうするおつもりですか?」

「おやじは──」ルーファウスしんは、遠くを見るような目をしてこたえる。「星の内部を巡るライフストリームに目を付け、こうエネルギーと名付けて商品化した。魔晄は当時の産業構造を根底から変革し、人間はかつてない繁栄を手に入れた」

「はい」

ばくだいな富と権力を手に入れたおやじは、多少は私腹を肥やしたにしろ、大部分の利益を新たな分野に投資した。手広く、節操なく。そのひとつがジェノバを対象とする研究と実験。やがてこれがセフィロスという怪物を生み出してしまった──」

 セフィロス。人間とジェノバのハイブリッドであるその怪物は、底知れない戦闘能力を持っていた。力は戦場で存分に発揮され、セフィロスは英雄と呼ばれる存在になった。しかし、身体能力ほどには心は強くなかった。己の出自を知った英雄はジェノバの息子を自認し、その結果、狂った。社に反旗をひるがえし、そればかりか人類の滅亡を企てる。対セフィロス戦の過程で神羅カンパニーはかいめつし、この星は宇宙のちりとなる寸前まで追い込まれてしまった。

「おやじはさっさと退場してしまい、悪夢にうなされたのは残された我々だ。理不尽な話だとは思わないか?」

 ツォンは否定も肯定もせずにルーファウスを見ていた。

「わたしはおやじとは違う」

 ルーファウスは声に力を込めて言い、車椅子を窓の側に移動させた。広場の、せいこんしょうこうぐんに苦しむ人々の姿が見えた。

「終わらせてやる。完全に」


*  *


 イリーナはロッジ区画の奥に広がる、森の入り口に立っていた。木々の間を抜けてきたこけくさい風がショートヘアの金髪を揺らす。

「ちょっとくらい事件起これー」

 きんしんだが、本心だった。誰も聞いていないことを確認すると、小さく首をすくめてから歩き出す。大きくこうする道を進むと、すぐに保養所で最も大きな建物が見えきた。といっても三十人も入れば満員になってしまう平屋のログハウスだ。元はレクリエーションホールとして使われていたらしい。最後の数歩を軽やかに飛んで、内側から厳重にじょうされた扉の前に立つ。扉の右横にあるボタンを押し、ブザーを鳴らした。たっぷり十秒もした頃、イリーナさんすか、と、中からのんびりとスロップが応じた。イリーナの先輩であるレノが街で拾ってきた青年だ。

「巡回! 早く開けて!」

 イリーナはいらちを隠そうとせず命じる。少し間をおいて扉が開いた。

「異常なしですよ」

 しばらく洗っていないらしい中途半端な長さの髪を気にしながら、やる気の無さそうな声でスロップは言った。イリーナを見おろす大きな身体にはまったく締まりがない。腹の部分でシャツがふくらんでいる。警備担当者としては完全に不適格だったが人手が足りなかった。しんカンパニーの現在を象徴しているような男だった。イリーナはその巨体を回り込むようにして中に入り、ルーチンにしている視線移動で室内を確認する。左から右へ。右から左へ。うん、異常なし。

 先週までこのホールは薬品の開発ラボとして使われていた。せいこんしょうこうぐんが患者にもたらす症状のひとつ、全身の痛みを抑える薬を開発していたのだ。かつて社がソルジャーに支給していた興奮剤が、鎮痛効果をもたらすことはすでに知られていた。研究チームは、その興奮剤を分析して、近い成分を合成することに成功したのだ。保養所の患者たちの協力を得て臨床試験を行い、ついに量産可能な薬が完成した。製造方法は世界再生機構WROをはじめ、生産体制を整えることができる大小の組織に無償きょうされることになった。このプロジェクトを発案し、実現のために駆け回ったのはイリーナだった。彼女がかき集めたスタッフは、皆、元しんの科学、あるいは化学部門の残党だった。両部門には、めいせきな頭脳と引き替えに良心を捨て去ったような連中が少なくなかった。放っておくとどんな危険な薬を作り出すかわからないと、イリーナは警戒し、監視を怠らなかった。しかし、それは取り越し苦労だった。ヒーリンに集まったのは熱意を持った善良な研究者たち。彼らはほとんど不眠不休で働き、ごく短期間で薬を完成させてしまったのだ。イリーナは、彼らを信頼していなかった自分を反省し、別れの日には、スタッフのひとりひとりに尊敬と感謝を伝えた。

 ホール内に設置されていた装置や備品、医療器具は大部分がこんぽうされ、入り口に近い壁際に積まれていた。それらは引き続きせいこんの研究を続けようとする者や、エッジその他の街で治療に従事する医者に寄贈されることになっていた。

 奥の棚には、薬のサンプルが入った密閉式の金属ケースが置かれていた。ケースはふたつあり、ひとつはこの保養所にいる患者用だ。数に限りがあるため、支給記録を残しながら厳重に管理されている。もう一方はWROの準備が整い次第、研究レポート及び製造マニュアルともに引き渡すことになっていた。

「ああ、確認しときましたよ。問題無しです」

 薬の棚に近づくイリーナにスロップが言った。

「手順通りやらないと」

「そうっすか──」

 不満げな声を背中で聞きながら支給記録を手に取り、金属ケースのふたを開く。支給と記録は上司のツォンの役目だ。記録にはツォンのちょうめんな文字が並んでいる。薬の残数欄を確認してからケースの中身と照らし合わせた。問題無し。続いて、ケース内に入っている小さな湿度計を確認する。薬は湿度に敏感に反応してその効能を変える。無効化や、毒化するわけではないが、効果が弱くなることが確認されていた。そのうち改善されるはずだが、当面は管理が必要だった。

「今日もいい子。問題無し」

 イリーナはスロップに聞こえるように言いながらもう一方のケースを見る。外見は同じだが、 こちらは、間違いが起こらないようにシールで封印されていた。

「こっちも問題──」

 シールが一度がされたあとがあった。

「スロップ、触った?」

「まさか!」

 スロップは即座に否定した。イリーナは腰のホルダーから携帯電話を取って、上司にかける。

「あのですね、ツォンさん。薬のシール、剥がしましたか? 発送用の方です」

 上司の返事を聞きながら目の端でのぞくと、スロップは窓の外を恨めしげな顔で見ていた。何故窓の外を見る? イリーナはわざと大きく動いて背を向ける。

「そうですよねえ。わっかりましたー!」

 スロップが出口に向かってじりじりと移動する気配がした。自分──いや、しんカンパニーもめられたものだ。

「撃つぞ」

 低く警告するとスロップは立ち止まり、首をすくめた。

「そこに座れ」

 休憩用の折りたたみ式の椅子をあごで示して命じると、スロップはノロノロと従った。棚に置いてあったこんぽう用のロープを使って、大男の手足を椅子に縛り付ける。

「ここで待ってな」


 外に出ると、ロッジ区画に通じる小道とは別の方向──荒野と森の境界方向に駆け出した。スロップが窓越しに見ていた方角だ。木の根が、張り巡らされたわなのように地面から突き出している。それを避けながらイリーナは猟犬気分で走った。この先にスロップの共犯者、もしかしたら主犯がいるのだと思うと心が躍る。タークスはこうでなくてはいけない。薬品開発は思い出深いプロジェクトではあるが、あれは特別な仕事だった。世のため人のためもいいが、本来、神羅カンパニーのタークスは社に尽くすもの。社を守るためなら、なんでもやる。

 ほどなく森が終わるというところに獲物はいた。小太りの男がおぼつかない足取りで森を出ようとしていた。

「止まれ!」

 驚いたことに逃亡者は素直に立ち止まり、そして振り向いた。汗だくの若い男。天然パーマと思われる黒い髪が額に貼り付き、毛先から汗がしたたり落ちている。丸い顔から四角い黒縁眼鏡がずり落ちそうになっている。森では有利だと思ったのかグリーンのトレーナーシャツを来ていた。ズボンはダーク・グリーンだった。しかし、その姿は立ち並ぶ木々の、薄茶の幹の間で目立つことこの上なかった。その情けない様子にイリーナの力が抜ける。

「見逃してくれ!」

 顔を真っ赤にして叫ぶと男はまた駆け出した。

「バカじゃないの?」

 イリーナは気を取り直して追う。森から出してはいけない。車が待っているはずだ。どこから来たにせよ、あんな男が荒野を歩いてきたはずはない。

 あと少しで追い付くというその時、電話が鳴った。取ると、ツォンの声が聞こえた。走るのを止め、逃げるグリーン男の背中を見る。男は転びそうになりながらも必死で走っていた。

「──はい、すぐに戻ります」

 電話を切ると、イリーナはため息をついた。


*  *


「さて──」ツォンは足下に向かって声をかけながら、その場にしゃがんだ。椅子ごと床に倒れたスロップが目を泳がせている。鼻血が床を汚していた。

「その、ファビオ・ブラウンはどこに住んでいるんだ?」


  3 事件がやってきた


 鏡に映る自分の顔を眺めて鼻をつまんでみる。この、横に広がった鼻がもう少し高かったら歴史は変わっていたかもしれない。いや、どうだろう。鼻の形が問題になるようなことは一度もなかったはずだ。問題は髪の色だ。一時期黒く染めていたが、染料の質が悪くて頭に湿しっしんができたので止めてしまった。今は生まれながらの色、つまり、茶色に近い金色で我慢している。あまり好きな色ではない。のほほんと育ったお坊ちゃんを思わせる。そんな気がする。おれはそういう育ちではないのだと、いちいち説明するのは面倒。ならば、最初から、タフな男の色に染めればいい。おれが思う、そんな男の髪は黒。やみの黒。やはりまた染めよう。上質な染料を手に入れること。忘れるな。

 おれは十九になった。ミッドガルを出てから二年。あそこにいた頃より目つきが悪くなったような気がする。望むところだ。ガキの匂いがするものは全て捨ててしまえ。よし、と気合いを入れてからみ置きの水で顔を洗う。続いて、首にかけておいたタオルで顔を拭きながら、殺風景な、狭い部屋をぐるりと見回す。壁の、き出しの鉄板が寒々しい。この家が建ってから一年以上、内装は放置されていた。実用上の問題は無かったが、いつまで経っても仮住まいのようだった。ずっとここで暮らすつもりなら、今日こそ手を付けなくては。節目である誕生日を逃すと、最低一年は先送りになりそうだ。必要な壁紙と塗料は前日までにそろえてある。さあ、始めろ。


 固い決意にもかかわらず、鉄板や合板を壁紙で隠してしまうとあとはどうでもよくなった。しかし、やめるわけにはいかない。天井用に準備した塗料は、缶がゆがんで密封されていない。さっさと塗ってしまわないと使い物にならなくなる。ダメにすると、次の入手は難しい。塗料は、最近出回り始めたちくこうタイプで、セコそうなブローカーから仕入れたものだった。最初は千五百ギルと言っていたくせに、缶の歪みにケチをつけて値切ると、最後は百ギルで売るくらいインチキな奴だった。おそらく盗品だ。しかし、塗料自体が本物なら気にしてはいけない。この時代、他人から物を買うということは、そういうことだ。商品がどこから来たかなんて考えるな。蓄光塗料は昼間吸収した光を夜に放出する。昨今のエネルギー事情──実質、何もないに等しい──を考えると、ここで怠けて塗料を無駄にするのはあまりにも愚か。怠け者かもしれないが、愚か者にはなりたくない。

 上半身裸になり、さあ、始めようと思った時、ドスンとドアが鳴った。おれは固まり、ドアを見る。低い位置がまたドスンと鳴る。貧弱な家全体が揺れた。

「ファビオ・ブラウン。いるんだろう?」

 静かだが危険な響きを持つ低い声に身が縮む。持っていた代わりのボロ布を塗料缶に突っ込み、息を殺して、脱いだばかりのシャツを着る。手が震えていた。げふ、とおくびが出た。

「ドア、壊すぞ、と」

 さっきとは別の男だ。笑っているような声。おれは応えず、ブーツを見る。マーケットで見つけたモンスターの皮で、去年作った特注品だ。内側に金属のプレートを仕込んだ、とがったつま先が活躍する日がついに来たのか。しかし、大切にいてきたので傷はほとんどない。なるべくなら、これ以上、傷をつけたくない。だったら逃げるしかない。どこからだ? 考えるまでもない。ドアが使えなければ窓しかない。窓は、洗面台の横。ガラスのサイズに合わせたせいでかなり小さい。が、通り抜けられないほどではない。静かに窓際へ移動する。思いついて、流し台の引き出しから食事用のナイフを取り出す。料理にも使えるように先端から五センチほど、刃をぎ出したものだ。いざとなったら、刺す。

「三十秒、待ってやるぞ、と」

 カウントダウンが始まるようだ。窓ははめ殺しなので割らなければ外には出られない。ガラスは貴重だぞ? 仕方がない。でも何を使う? 何か破壊的な道具はないかと考えた時、悲しい音とともにドアが壊れた。話がちがう。まだ十秒も経っていない。内側に倒れたドアを踏みつけて、燃えるような赤毛の、締まった体つきの男が入ってきてニヤリと笑った。独特のデザインのスーツを着ている。広場でよく見かける二人組の片割れ。ということは最初の低い声はサングラス&スキンヘッドの大男なのだろう。彼らはいつも一緒だ。まるでナイフとフォーク。

「フォークなんか捨てろよ。ケガするぞ、ぼーや」

 赤毛は警戒する様子もなく近づいてきた。バカにするな。おれはフォークを突き出して──フォーク?─赤毛に突っこんだ。

「あっ」

 みじめな声が出た。赤毛のしゅとうで手首を打たれ、フォークを床に落としてしまった。冷静にナイフを手にしていれば、などと考えていると、腹に、赤毛のひざがめり込む。反射的に腹を押さえて前かがみになる。背後からシャツのえりくびつかまれて引き戻される。そしてい締め。おれは両手を上にあげたまま無理矢理ドアの方を向かされた。両足が宙に浮きそうになった。かろうじてつま先で立っている。赤毛は倒れたドアを持ち、戸口にたてかけている。ということはおれの背後にいるバカ力がスキンヘッドのはずだ。

「なあ、ファビオ」

 赤毛がおれの胸を指先でつつきながら顔を近づける。

「おおっ!?

 それきり黙り、口を開けたままおれを見る。なんだ? と思う間もなく背後からバカ力が首筋を押し出そうとする。息ができない。苦しい。痛い。

「盗んだものを返せ」

 何の話だ? 知るか。しかし、知らないことを証明するのは難しい。最善の解答を探せ。せんたくを選べ。このきゅうからおれを救う答えは?

「なんとか言えよ」

 スキンヘッドは一瞬力を抜くと、おれの首の後ろで組んだ両手を後頭部へ移してさらに押し出した。

「苦しい──」

「返せば楽になる」

 背後で筋肉が動き、同時におれの両足が床を離れた。目に血液が集まってくるのがわかった。そしてついに流れ出す。

「泣くなよ、兄ちゃん。カッコ悪い」

 泣く? おれが泣いてる?

「ふん、ガキめ」

 不意に背後からの戒めが解ける。おれは崩れ落ち、図らずも赤毛に命乞いをするような格好になってしまった。屈辱的だがどうしようもない。嵐は床にいつくばってやり過ごすしかない。二年前にこうが吹き荒れた時と同じだ。

「ま、モノがモノだ。事情は察しがつくぞ、と。二度としないと誓うならお仕置きだけで帰ってやる」

 お仕置きという言葉に身体が勝手に反応する。おくびと震えだ。げふ。ガクガク。認めよう。タフな男に人一倍あこがれを持ってはいるが、実際はその逆だ。

「びびらせて悪いな、と」

 同情するように赤毛が言った。

「びびらせに来たんだろ」

 スキンヘッドが反論した。このまま仲間割れをして、ふたりで殺し合ってくれ。それが無理ならそのまま会話を。時間をくれ。最善の答えを探す時間を。

「なあ、ファビオ。顔をあげろ」

 従うしかない。おれはふたりの顔を見た。いつもは遠くから眺めていた二人が目の前にいる。赤毛は不良がそのまま大人になったようなようぼうだった。八番街の倉庫にいたような、おれが憧れと憎しみの、両方を抱き続けたあの連中。その代表みたいな奴が、くちに笑みを浮かべながらおれを見おろしていた。スキンヘッドは、赤毛よりもひと回り大きい。身長だけではなく厚みも相当なものだ。この薄暗い部屋の中でも黒いサングラスをはずさない。きっと、おれとは全然違う風景を見て生きてきたのだ。

「ここに来るまで、あちこちに恐い顔見せて来たからよ、何もしないで帰るわけにはいかねえのよ。ちゃんと仕事して、おれたちをコケにした奴がどうなるかみんなに教えてやらないとな」

「こ、殺す気?」

 答えを探し続けて出た言葉がこれ。しかも声がうわずっている。

「確かに、それが一番簡単だ。でもな、おれたちの目標は、ちょっと怖がられつつも、愛されるしん。嫌われたくはない。殺しちまうと、かなり、嫌われるからな」

「おまえ、おれたちを知っているか?」

 スキンヘッドが訊く。おれは急いで三度うなずく。神羅カンパニーのタークス。いい子にしないとタークスが来るよ、の、タークスだ。神羅の二代目社長、通称バカ社長──黒猫をクロと呼ぶような、気の利かない呼び方だが、世間ではそれで通じる。社長が交代してからあっという間に世の中がおかしくなった。それを考えると仕方がないだろう─がビルと一緒に吹っ飛んでから神羅カンパニーがどうなったのかは知らない。しかし、ここにいるふたりは、相変わらず神羅のタークスを名乗っている。その名前が一般人に与える効果を利用しているのだ。タークスは神羅のダークサイド。解決に暴力が必要な問題が生じると彼らが登場する。

「おれたち、だーれだ」

「タークス──さん」

「さんはいらないぞ、と」

「──すいません」

「立てよ」

 命じられるままにふらふらと立ち上がった。足はまだ震えてる。赤毛が素早く動いたかと思うと突然顔面に衝撃を受け、おれは部屋の隅に吹っ飛ぶ。数少ない家具のひとつ、三脚の椅子に背中から当たり、一緒に倒れた。右目が痛い。目を殴られた。触れるとべったりとれていた。血?慌てて手を見るとそれはちくこうりょうだった。

「こんなもんでいいか?」

「少々ぬるいが──まあ、いい」

 おれは床に転がって、ふたりの会話を、背中で聞いていた。やがて男たちが外に出て行く気配がした。全身の力が抜ける。くくく、とか、ひひひ、という声が腹の底から、逆流する胃液のようにき上がる。笑っているのか泣いているのか。自分でもわからない。膝を胸に引き寄せてたいのような姿勢になると、そのまま心と身体が落ち着くのを待った。三分。もしかしらた五分。そして──

「なんだってんだよ!」

 奴らに最初に言いたかったことを叫びながら立ち上がる。

「ちょっといいか?」

 声に驚き、かつてドアがあった場所を見ると赤毛がおれを見ていた。

「おまえ、おやじは?」

 赤毛がまだそこにいたことも驚きだったし、質問の意図も理解できない。加えて、赤毛が何事も無かったかのように振る舞うのも理解不能。

「おまえの父親はどうしてるって聞いてんだよ」

「死にました。おれが生まれる前です」

 とにかく早く帰って欲しい。素直に答えればいいのだろう。

「写真か何かあるか?」

「いいえ」

「どんな人だ? おふくろさんから聞いてるだろ?」

「いいえ」

「じゃあ、会ったことはもちろん、顔も知らない、と」

 おれはうなずく。どこまでも正直に答えるつもりでいた。

「じゃあ、おふくろさんは?」

「死にました」

 少し、ちゅうちょしてから言った。

「メテオの時か?」

「はい」

 おれの答えに赤毛はゆっくりとうなずく。

「まあ、がんばろうや。もうバカはするなよ、ファビオ」

 根本のところを勘違いしたまま赤毛は出ていった。おれはベッドに転がり、出来事の記憶を辿たどる。ああすれば良かった。こう言ってやれば良かった。思いつきもしなかったせんたくの数々が頭をよぎる。気が滅入る。右目の周囲がズキズキと非常事態を告げている。腹と首が痛い。ベッドを離れ、鏡を見る。殴られたばかりの男が見返していた。よう、大変だったな。でも、もう終わった。タークスに殴られたなんて、ゆうでんだ。さあ、出かけようぜ。おれはうなずき、顔についた塗料を洗い流す。それから、破壊されたドアを元に戻す。ちょうつがいを止めていたくぎが抜けてドア全体が外れただけだった。やすしんにも利点あり。それほど苦労せずに修理は終わった。床にこぼれた塗料や散乱する雑多な生活用品が気になったが後回しだ。壁のフックにかけてあった上着を取る。薄茶の革ジャケット。えりに打たれたびょうが鈍く光る。最も気に入っているのは背中に描かれたモンスターのイラスト。爆発寸前のボムだ。一点物で高かったが、我慢できなかった。そいつをってベッドへ行き、下に隠してあったゴツいショルダーバッグを引っ張り出して肩にかける。最近皮がこなれて使い易くなった。最後にマウンテンハットをかぶる。最近、女の子からもらった。戦闘準備完了だ。


 おれの家は直径十五メートルほどの円形の中庭に面している。似たような家が中庭の円周上に六軒並んでいる。庭には、役に立ちそうだと誰かが考えた資材、つまりガラクタが積まれている。目立つのは十年落ちくらいの自動車。五人乗りの、ゆったりとした元高級車だ。外観はぼろぼろだし、もちろん動かない。バッテリーさえあれば動くと所有者は言っているが、そんな貴重品はまず手に入らない。所有者はドイルという筋肉男で、この場所に家を建てたせんしゃでもある。おれたちは敬意を表して「村長」と呼んでいる。年はおそらく三十代前半。普段は太いまゆを派手に動かしながら話す陽気な男。が、その正体は人一倍の寂しがり屋。二年近く前、自分で建てた家に友人たちを呼び寄せて共同生活を始めた。いや、人を呼ぶために家を建てた。やがて友人が友人を呼び、数が増え、室内が酸欠になった。彼らは協議し、それぞれの家を建てることにした。労力を提供し合い、村長の家に軒を並べ、車と資材置き場を囲むように家を建てた。結果的にこの円形の中庭ができた。ここに住む友人を初めて訪ねた時、家は五軒だった。村長に紹介され、その時に、土地が余って格好がつかないから家を建てて住まないかと誘われ、その気になった。おれはすきを埋めるためにこの「ドイル村」の住人になった。

 村長の家の赤いドアがゆっくり開いて、男が、おそるおそるという様子で顔を出した。ねずみがおたんかつ、貧相な体つき。硬そうな髪の毛が四方八方に伸びて、頭だけがやけに大きく見える。歳はおれと同じくらいか。一週間ほど前から見かけるようになった顔だ。いつも鼠色の作業着を着ている。

「ああ、無事だった! 良かった」

 何か事情を知っているようだ。おれはれて痛む顔の右半分に手を当て、そんなに安心されるのは不本意だとメッセージを送った。

「ああ、結構やられたか。タークスが来たから、とっさにあんたの家を教えちまった。あんた場数踏んでそうだから大丈夫だと思ったんだけど──悪かったよ」

「まあ、いい判断だったと思う」

 大部分、本心だった。おれの家を教えた理由が気に入った。日頃の、イメージ作りの成果。

「仕返しするなら爆弾作ってやろうか?」

「爆弾?」

「ほら、崩れかけたビルとか、そういうのをぶっ壊す爆弾。おれ、作ってるんだ」

 考えておく、とは言ったものの、タークスとこれ以上関わり合う気はなかった。男は重々しくうなずいてみせるとドアを閉じた。おれは自分の白いドアに鍵をかけると、隣の緑のドアをノックした。そして友人に声をかける。

「ファビオ? エヴァンだけど、開けてくれ」


 おれの名はエヴァン・タウンゼント。生まれたときからずっとこの名前だ。


 ほどなく、ドアが細く開いた。視線を下げるとおれの腰あたりの高さから見上げる顔があった。

「よう、エヴァン」

「よう」

 ビッツ・ブラウン。ファビオ・ブラウンの幼い弟。兄貴の小さなコピーのようによく似ている。緑色のものに囲まれて、兄弟でここに住んでいる。両親は二年前に他界した。落ちてきた七番街の下敷きになって家ごとつぶされたそうだ。兄弟は三番街スラムにいて難を逃れた。そこにはやたらと花が咲き乱れる庭を持つ家があり、ふたりして見とれていたそうだ。もちろん、見ていたのは花ではなく緑の葉っぱ。

「ファビオは?」

「兄ちゃん、出かけちゃったよ。仕事なんだろ?」

「ああ、そうだな」

「目、どうしたのさ」

「これか。転んだんだ。椅子に乗っててんじょうにペンキ塗ってたらバランス崩してな」

「あー、すごい音がしたもんなあ。おれ、それで目が覚めたんだ」

「そりゃ悪かったな」

「いいって。薬のおかげで全然痛くないのに、寝るのはもったいないだろ? どこかへ行きたいと思ったけど、兄ちゃんが留守番してろって言うからさ。本を読んでいるうちに眠っちゃった」

「薬って?」

 もちろん、せいこんしょうこうぐんに効く薬だろう。ビッツの症状は、髪の生え際から眉の上まで広がる、星痕と呼ばれるあざ。背中にも広がっているらしい。そして、その痣から出る黒いうみ。日によって程度は違うようだが、痛みも相当なものらしい。

「星痕の薬ができたのか? 何も知らなくてさ」

「──」

 ビッツが、しまったという顔をして視線をそらす。

「ファビオに口止めされたのか? 相手がおれでも?」

「まあ、エヴァンならいいか。実はさ、できたばっかりの、最新の薬なんだって。治らないけど、痛くなくなるんだ。チンツーザイっていうんだろ? 兄ちゃんが医者から特別にもらったんだ」

 誇らしげな顔だった。なるほど。おれが暴力と屈辱に耐えたがあったなら、それでいい。


 エッジ。近頃定着した、この街の名前だ。二年前までこのあたりは荒野だった。鋼鉄の都市ミッドガルの東側に広がる不毛の地。そこが今では立派な街になっている。幾つか、ビルの建設も始まっていた。土地は余っているというのに、何故そんなに高い建物が必要なのかおれにはわからない。まあ、おれには関係ない。好きなようにすればいい。エッジは、自由な街だ。

 大通りを中央広場に向かって歩く。ミッドガルから東に延びるこの大通りは、最初は、資材運搬用だった。運ばれた資材で建てた家々で大通り沿いが埋まると、街は放射線状に広がり始めた。風景は日々変化している。毎日同じ場所に立てば、街が勢いよく成長する様子がわかる。おれは物事についケチをつけてしまう性分ではあるけれど、その光景には黙るしかない。人間のポジティブなパワーを感じることができる。疲れた時は街を眺めろ。


  4 セブンスヘブンにて


 ドイル村から集合場所のセブンスヘブンへは中央広場を抜けるのが一番早い。二年近く前、武装都市ジュノンから帰還したという神羅軍の将校が、ここを街の中心にすると宣言した。それをきっかけに広場としての整備が始まった。将校の部下やボランティアが作業に加わった。その将校はほどなく姿を消し、その後、殺されたという噂が流れた。神羅残党の仲間割れだろう。計画自体は有志に引き継がれ、広場は一応完成した。しかし、今でも毎日五十人くらいのボランティアが作業をしている。日によっては百人を超えていることもある。彼らは広場にれいを建てようとしていた。メテオ騒動の犠牲者。その魂をなぐさめようということらしい。悪いことではない。が、おれは、連中を好きになれない。奴らが生み出す空気が嫌いだ。世のため、人のため、未来のため、明るく正しく生きていますと、必要以上にアピールしているように見えた。

「よう」

 広場の中央、慰霊碑の骨組みに寄りかかって赤毛のタークスがおれを見ていた。しかも手招きしている。かつだった。奴がいるのは当然だ。建設を仕切っているのはタークス。神羅カンパニーが、今さらなんだ。ボランティアの奴らは、神羅の傘の下以外では生きていけない、小動物の群れ。それも連中を気に入らない理由のひとつだ。

「ファビオ、おまえも一緒にやらねえか?」

 拒否すると面倒なことになるのだろうか。しかし、彼らの仲間になどなりたくない。最良の返答を探しながら歩いていると、赤毛は誰かに呼ばれたらしく、作業に戻っていった。おれは、鉄骨が崩れて赤毛が死にますようにと祈りながら歩き続けた。

 さらに広場の外周を三分の一ほど回って、放射状に広がる道の一本に入る。この街の、まだ短い歴史の、その中でも特に初期に作られたこの通りはおれのお気に入りだ。他のどの通りよりも快適にそうされていて、両側に立ち並ぶ家々も手が込んだ、つまり、廃材で作ったことに気づかないほど洗練されたものが多かった。通り自体はほんの数分で歩ききってしまう距離だが、その数分だけ、かつてのミッドガルにいる気分になれた。七番街あたりの雰囲気だ。神羅は嫌いでもミッドガルはおれの故郷なのだ。

 おれたちが仕事の打ち合わせによく使うダイナー、セブンスヘブンは、この、ご機嫌な通りにある。見事な胸の、ティファという二十代半ばの美人が店を切り盛りしている。マリンという、少々生意気ではあるけど、将来、やはり美人になることが約束されたような顔立ちの女の子がティファを手伝っていた。

「いらっしゃい」

 ティファが静かな微笑みでおれを迎える。多くの男たちは胸に目を奪われるのだろうが、おれは彼女の穏やかな笑顔に心やされる。彼女は視線を動かして、仲間のいるテーブルを指し示す。おれは黙礼で返す。毎度繰り返される、ささやかな儀式。これ以上は望まず、期待もしない。常連のたしなみだ。

 テーブルには仲間が顔を揃えていた。こっちに丸い顔を向けている黒縁眼鏡がファビオ・ブラウン。ビッツの兄貴。たいていグリーン系の服を着ている。今日は明るいグリーンのシャツ。もしグリーンの眼鏡フレームがあれば喜んで使うだろう。ファビオはおれに気づかず、目の前のコーヒーカップをにらみ付けていた。弟の心配をしているのだろうか。それとも、しんから薬を盗み出したことを反省しているのか。ファビオの右隣に座っているグレーの短髪はレズリー・カイル。髪の色とお似合いの、ざらついた暗い肌をしている。くぼんだ目ときつく結ばれた口からもくな男を想像するが、実はそうでもない。知識が豊富で、意外と社交的、その結果、情報通。ほおづえをついて、目を閉じている。最近はなぜか、いつも眠そうだ。そしておれに背中を向けているキリエ・カナン。いつものライダースジャケット。そでを切り落としてノースリーブにしている。けんこうこつの下まで届く黒髪の先が、今日は内側にカールされている。りょうひじをテーブルについて、顔の前に手を寄せている。たぶん、爪を見ている。細い両肩が小刻みに揺れているのは、十中八九、心の中で何か歌っている証拠だ。曲は、コスタ・デル・ソルのコマーシャルソングに違いない。

「やあ」

 いつまでもおれに気づかない三人に近づき、声をかけた。レズリーがおれを見てけんしわを寄せる。顔面の異変に気づいたのだろう。ファビオはコーヒーを見つめたまま、ああ、とつぶやく。おい、ファビオ。おれを見ろ。気づけ。この顔面のさんげき

「ほら、やっぱりその帽子似合う!」

 キリエがはしゃぐ。

「うん、悪くない」

 おれは背中に回していたショルダーバッグを前に移動させながら空いている席につく。

「エヴァン、どうしたの、それ」

 おれの顔を遠慮なく指さしてキリエが言った。大きな目がさらに見開かれている。

「実は──」口を開きかけて、ファビオがまだ顔を上げていないことに気づく。それはないだろう、ファビオ。「それよりファビオ。出かける時は声かけろよ」

「ああ、ごめん」ファビオはのろのろと顔をあげ、やっとおれの顔を見た。「それ、どうしたんだ?」

「タークスがふたり来た」

 おれは挑むように言った。

「もしかして──」

 ファビオが不安そうに言った。

「ビッツは無事だ」

 弟の無事を伝えるとファビオは露骨にあんした。

「二人だけで話さないで。タークスって、あのタークス? ビッツが無事ってどういうこと?」

 さて。事実はひとつ、真実は人の数だけ。ここはおれの真実を語らせてもらおう。家にタークスが来たところから話を始める。おれの言動が情けなく聞こえないように気を配った。そして赤毛とスキンヘッドの凶暴さをちょうし、最後に、通りかかったマリンに紅茶をオーダーした。

「エヴァン、ごめんな。おれのせいで、ほんと、ごめん」

「いいよ。ビッツがひどい目にあわなくて良かった。奴ら、子供だってようしゃしないだろうからな」

「ファビオ、何をやったんだ?」

 レズリーが訊いた。もう少し話題の中心にいたかったが仕方がない。

しんの残党がせいこん用の痛み止めを作ったって聞いたんだ。それがヒーリンっていう、保養所に保管されてるってさ。それを少し頂いた」

「無謀」キリエが口を尖らせる。「ほんと、無謀。それに、がっかり」

「いろいろ偶然が重なってさ。村長んちに居候しているキーオの友達が、薬の倉庫で警備しているって聞いて──」

 キーオは赤毛たちにおれの家を教えた、ねずみがおの爆弾男に違いない。

「キーオは友達に貸しがあって、おれはキーオに貸しがある。それを一切合切チャラにするって約束だった。だからおれはキーオの友達──スロップって言うんだけど、そいつが警備を担当する時間に行って薬を受け取った。基本、それだけの話」

 腹が立った。それだけの話? おれの右目を見ろ。

「薬は効いた? ビッツは?」

「うん、かなり調子いいみたいだ。でも、効果が切れたらどうかな。一時的に楽になった分、次はもっとつらいかもな」

「あくまでも一時的、か」

「何もないよりマシだよ」

 このまま話が終わってしまうのは気に入らない。蒸し返す。

「チャラじゃないだろ。タークスが来たんだぞ。おまえご指名でさ。奴らはどうやっておまえの名前や家を知ったんだ? 本当に終わりなのか?」

「そうか。スロップがゲロしたってことか。ごうもんされたのかも──」

 ファビオは頭を抱え、両手で髪の毛をつかむ。

「無事だと思うけどな」キリエが柔らかく言った。「スロップって人、ひどい目にあわされたかもしれないけどね。でも、エヴァンはここにいるでしょ? 殴られたけど、生きてる。その程度の罰で、あっちの気は済んでるってことじゃない?」

 キリエが自責の念にさいなまれているファビオに助け船を出す。

「でも、タークスは冷酷な殺人集団だぞ」

 キリエが出した船を沈めようと、おれは言った。

「あのねえ、ファビオ」キリエはおれを無視して続ける。「スロップを助けに行こうなんて考えないでよ。しんも怖いけど、ヒーリンって遠いんでしょ?」

「キーオのコネで小型のトラックを借りられたんだ。全財産を取られたけど」

「途中にはモンスターだっているし」

「それが、出なかったんだ。日頃の行いがいいからかな」

 ファビオ。その口癖は、今言うべきではない。キリエも同じように思ったらしく、眉をひそめる。

「おれもこの件は終わりだと思う」黙って聞いていたレズリーが口を開いた。「おれが聞いた話じゃ、その薬の量産体制が整いつつあるらしいからな。広く出回るなら、向こうとしても、ファビオが盗んだぶんにこだわる必要はない。人違いとはいえ、罰は与えたわけだしな」

「どうせそれで商売するつもりなんだろ?」ファビオが声を荒げる。「エネルギーの次は薬。汚ないんだよ、神羅は」

 筋金入りの神羅嫌い。七番街の崩落事件は神羅カンパニーの自作自演だという噂があるらしく、ファビオはそれを固く信じていた。

「ところがファビオ、驚きなんだ」レズリーが黒い手袋をした左手を突き出してファビオをなだめる。「薬はWROが作って、しかも、無料で配布される」

「まさか!」

「ただほど高いものはない」おれは、言わずにはいられなかった。「それにWROのリーダーだって元神羅のお偉いさんだろ? 結局、繋がってるんだ。奴ら、巧妙にカムフラージュしてるけど、目的はひとつ。神羅ワールドよ再び、だ」

 声が大きかったかもしれない。周囲の客の視線を感じる。

「WROは悪くないと思うけど? 目的は治安維持でしょ?」

 キリエがおれを否定した。もう引き下がれない。

「そのうち秩序の維持って言い換える。今はモンスターに向けている銃を、街の中に向け始める」

 根拠などない。言い過ぎだと自分でも思う。

「どうしたの、エヴァン、からむじゃない?」

「目が痛いんだよ」

「おれは神羅でもWROでもいいんだ。あちこちで生まれては消える、明日の世界を考えるサークルみたいのが出張ってきても構わない。選択肢が多いのはいいことだ。自分の力で人生を切り開いていける時代だからな。やりたいやつは勝手にすればいい。良いと思ったらおれは支持するし、気に入らなかったら背を向ける」

 レズリーが持論を展開する。

「目が痛い」

 しつこいのは自覚している。レズリーの意見もその通りだと思う。しかし、おれはもう自力では止まれない。誰か、頼む。

「それで、神羅なんだけど」レズリーが一瞬おれを見て続ける。「さっきキリエは、奴らの気が済んだって言ったよな。それもあるけど、実は、もっと深刻な問題を抱えていると思う。エヴァンを殺さなかったのは、悪い評判が立つと困るからだ。そっちの理由の方が大きい。何故か。神羅を名乗る連中には、その悪評を跳ね返してねじ伏せるだけの力が無い」

「だったらいいけど──でも、レズリーの想像だろ?」

 ファビオが心配そうに言った。

「考えてみろよ。大事な薬品の警備に、友達への借りを返すために泥棒の手引きをするような奴を使ってる。これはどういうことだ? ザ・人手不足」

「そう言われればそうだ」

 ファビオは納得し、キリエは頼もしそうにレズリーを見ている。

「広場のタークス以外にも神羅を名乗る奴はたまにいる。でも、大きな勢力にはならない。理由を考えたことはあるか?」

 キリエとファビオが首を横に振る。おれは縦に振る。やってしまった。しかし、レズリーが口を開き──

「神羅って言うと、あの馬鹿でかい会社を思い浮かべてしまうから、わからなくなるんだ。思い出せ。神羅ってのは、人の名前だ。初代と二代目。この二人が世界の中心だった。今じゃ極悪人扱いだけど、世界は実質、あの親子が動かしていた。末端の社員はともかく、上へ行けば行くほど、社長を恐れ、同時に心酔したって話だ。二代目はバカ社長だなんて呼ばれているけど、きっとすごい切れ者だったと思う。一度会ってみたかったよ、おれは」

「結構ハンサムだったよね。そういえば、エヴァン、ちょっと似てる?」

「なんだよ、それ」

「冗談。で、神羅が大きくなれない理由は?」

 おれに聞くのか?

「バカ社長──」レズリーの話を参考にして、当てずっぽうで答えるしかない。「ルーファウス神羅が死んで中心になるカリスマがいないから、組織に魅力がない。人が集まらない」

 レズリーがうなずいたのを見て、ほっとする。

「待って。だったら、せいこんの薬を作ったのは誰?」

 キリエがファビオに聞いた。

「それは、元神羅の化学者たちと、いろいろ手配したタークスらしいよ。社長の姿なんて見たことないってさ」

 ファビオが言った。とらわれのスロップから聞いたのだろう。

「ふーん。ってことは、神羅、恐るるに足らず。これでいい?」

「用心にこしたことはないけど、まあ、大丈夫だろ」言ってからレズリーはおれを見る「それにしても、エヴァン。おまえ、凄いな。人違いだってことも言わずに、よく耐えた。さすがだ」

 それを最初に言ってくれ。

「巻き込んで本当にごめん。この恩は必ず返す。命けるよ」

 ファビオが頭を下げる。

「そんなもん、賭けるなよ」

 おれはファビオの眼鏡のレンズを指で押して、グリグリと汚す。

「やめろよぉ! おれの一番嫌いなやつ!」

 ファビオが笑いながら抗議する。これで、チャラにしてやる。

「じゃあ、今日はこれで解散!」

 キリエが宣言する。男たちは笑うのを止めて彼女に注目する。

「仕事は? 作戦会議」

 レズリーが当然の質問をする。全員、そのために集まったのだ。

「それはですね」キリエは目を伏せる「お客さんが来るのは今日、これからだった。わたし、昨日だと思ってました」

「じゃあ、今日は無し?」

「そういうことかな」寒くもないだろうに、キリエはき出しの両肩を自分でこする「じゃあ、帰ろっか。エヴァンは一緒に来て、依頼人の話、聞いて。男の人だから、ほら、ね」

「いいけどさ」

「電話があればなあ。ぱぱぱって連絡できるのにね」

 キリエはため息をついた。電話は、難しい問題だ。あんなに当たり前に、誰でも持っていたというのに、今は製造されていないので数が圧倒的に不足している。例の、メテオ騒動以前から持っている連中はけして手放そうとはしない。たまに出回る時は、バカバカしい値段が付けられているのが常だ。それでもすぐに店頭から消える。かと思うと、どこかの倉庫にあったものが気前よく、タダに近い値段で放出されることもある。その場に居合わせたらラッキー。電話を持っているかどうかで、そいつの、運、不運がわかるとすれば、おれたちは、不運のかたまりだろう。

「じゃ、行こう」

 キリエは席を立ち、カウンターへ向かう。今日はボスのおごりらしいとレズリーが笑い、ファビオが小さく拍手をした。


 ドイル村へ帰るファビオと別れ、キリエ、レズリー、おれの三人はスラムへ向かった。仕事用のオフィスがスラムにある。そこでも打ち合わせはできるが、おれたちは皆、セブンスへブンで会って話すのが好きだ。店自体が気に入っているのはもちろんだが、それよりも、わざわざ金を払って飲み食いや仕事の話をすることは、ちょっとした優越感──という側面もあるのかもしれない。他の連中は知らないが、少なくとも、おれにはある。内緒だ。

「次の仕事、金になりそうかな」

 レズリーが努めてさりげなくという調子で言った。

「このあいだのミセス・リッチの紹介だから、期待できるかもね」

 金持ちそうな女性客は全てミセス・リッチだ。

「だといいな。ちょっと金を貯めたくてさ。おれ、女と住み始めたんだ」

「わお」キリエがおおにくるりとターンして驚いてみせる。「いつから?」

「二ヵ月くらい前だな。実は、あいつ、妊娠してる。生まれるのは七ヵ月後」

「へえ──」

 予想外の告白に、おれは言葉を無くす。

「良かった。レズリー、本当に良かった」

 しばらく歩いてから口を開いたキリエの声が、かすれていた。なんでおまえが泣くんだよとレズリーがからかう。だって、いろいろあったから、それ思い出したら──

「相手、どんな人?」

 おれは口を挟む。キリエとレズリーはおれよりずっと古い知り合い同士だ。ふたりの昔話を楽しめたことは一度もない。

「名前はマール。今度みんなに紹介する。ああ、悪い。おれ、ちょっと寄り道して帰るわ」

 話を打ち切り、そそくさと、レズリーは離れていった。残されたおれたちはその背中を目で追う。灰色頭の男が向かう先には、小さな荷車で果物を売っている婆さんがいた。おそらく、ぼったくりの果物屋だ。二年前からこっち、果物が安かったことなど一度もない。昔は見向きもされなかった、ほとんど味の無いものでさえ高値で取引されている。

「あれじゃあ、幾ら金があっても足りないよな」

「うん、仕事、増やした方がいいかも」

 おれたちは並んで、婆さんと交渉する友人の姿を見ていた。身振り手振りで、妊娠中の恋人のことを伝えているレズリーは見物だった。やがて折り合いがついたらしい。赤い果実を二個受け取ると金を払い、立ち去ろうとした。すると婆さんが呼び止め、黄色の、小さめの果物を三個、レズリーに渡した。

「この先も一緒にやってくれるかなあ」

「その時はその時。おれが今の二倍働く」

 キリエは何も答えず、歩き出した。おれは居心地の悪さを感じながら、続いた。


  5 イリーナのいら


「はーい、了解しました」

 電話に向かって明るい声で言ったもののイリーナは了解も納得もしていなかった。レノはファビオを一発殴っただけで解放したらしい。命は奪わないにしても、ひと月はベッドから出られないようにしてやるのがしん、そしてタークスのためではないかとイリーナは思う。

「おれ、どうなるんすか?」

 昨日から椅子に縛られたままのスロップが情けない声で言った。鼻血が渇いて、頬に薄汚くこびりついていた。

「死ぬんじゃない?」

「助けてください。おれ、神羅軍にいたんです。仲間じゃないですか」

 こういう男が最もタチが悪い。まだどこかで神羅の名を汚すようなことをするかもしれない。イリーナは尻ポケットから革製の手袋を出して手にはめ、スロップの前に立った。

「何をしている」

 背後からかけられた声に慌てて振り返ると戸口にツォンが立っていた。

「わたしは──」悔しいんです。イリーナはその言葉をみ込み、上司の横をすり抜け、外に飛び出した。