1 まず、おれのことを少々
十四歳の頃、真っ黒なオス猫を拾った。近所の道ばたで、情けない声で鳴いていたのを家へ連れて帰った。気の利いた名前を付けてやろうと考えている間に、母がクロと呼び始めた。母は、そういう人だ。黒い猫の名はクロ。おれは文句を言ったが、結局、代案は出せなかった。
クロは用意してやった椅子とクッションを無視して、数時間おきに居場所を変えた。台所兼食堂、おれの部屋、母の部屋。狭い我が家の、あらゆる場所で物思いにふけり、眠った。やがて半年後、自分の居場所はここにはないと判断したのか、クロはどこかへ行ってしまった。おれは十五になっていた。彼が何歳だったかは知らない。
「うちが気に入らなかったのかな」
「男の子は家を出て行くものなのよ」
ある夜、クロの思い出話になった時に母が訳知り顔で言った。母を残して家を出ることなど、考えたことはなかった。早く稼いで、母を助けたいと思っていた。
母は、昼間はカフェで、夕方から深夜過ぎまでは酒場で働いた。いつも疲れていた。それなのに、おれが仕事を見つけると、なんだかんだと理由を付けて止めた。おれが患っていた病気が原因なのだと思う。心臓だ。しかし、五歳の時に手術を受けて問題は解決したはずだし、その後は快調そのもの。おれ自身は、すっかり健康なつもりでいた。
「ねえ、やっぱり働きたいんだ。そしたら、母さんも少しは楽になるだろ?」
「ありがとう。でも、あと二年。十七になったらね」
母は、ゆるやかにうねる、美しい、けれども
「どうして十七?」
「クロもきっと十七歳だったから」
理屈も何もなかった。
半年ほどして、通りでクロを見かけた。いや、クロらしき猫を。片耳の先端を無くし、全身傷だらけのノラ猫と化していた。クロと呼ぶと、面倒くさそうにおれを見た。しかし、すぐに視線をそらして歩き出す。追うと、振り返りもせずに近所の家の
働きたい、ちょっと待って──定期的に同じ会話が繰り返された。友人たちはたいてい働いていたし、そうでなくても、自分の小遣いくらいは稼いでいたはずだ。みんなでおれを屋根の上から笑っているような気がした。
ミッドガルの六番街。商店や飲食店が建ち並ぶにぎやかな通りが終わるあたり。我が家は、本屋と武器の加工屋に挟まれた、湿って、
十七歳になる一週間ほど前だった。電話の音で目が覚めた。母が誰かと小声で話すのが聞こえた。起きると、母が台所兼食堂をかたづけていた。掃除と
「会って欲しいから着替えてくれる?」
母はおれを見ずに言った。嫌な予感がして、それは当たった。
ニックス・フォーリーは母と同じ三十半ばくらい。長身を、仕立ての良さそうなグレーのスーツに包んでいた。淡いピンクに白のドットが入ったネクタイの上には、小さく、
「ニックスと呼んでくれ。
ほら、これでもう、ぼくたちは友達だろ? そんな笑顔と自己紹介だった。実際、気を抜くと、本当にニックスと呼んでしまいそうだった。
「へえ、きみはお父さん似なんだね」
自分で言ったくせに、ニックス・フォーリーは、しまったという顔をした。
「父を知っているんですか?」
父親はおれが生まれる直前にウータイで死んだ。写真は一枚もなかったから、おれは父の顔を知らない。
「いや、お母さんにはあまり似ていないって意味だったんだ。事情は聞いていたのに──悪かったよ。でも、ハンサムだよな。もてるんじゃないか?」
おれは毒虫でも
「ニックスのお土産を食べない? トスカさんのケーキ!」
派手な音を立ててテーブルに皿を並べ、
「さあ、二人とも座って」
「やあ、ついにご対面だ。このケーキのことを聞いてから、一度食べたいと思っていてね。普段は甘い物なんか全然興味ないんだけどね」
どうでもいいことを話しながらニックス・フォーリーはおれの席に座った。死ねと思った。母の顔から笑顔が消えた。テーブルの周囲には、椅子が三脚ある。残りの二脚のうち、おれは、敵の正面に座った。母の席だ。母は滅多に使わない客用の椅子に座る。凍りついた空気にニックス・フォーリーも気づいたのだろう。大きくため息をついておれを
「もっと早くに、きみと会っておくべきだったと思う。でも、なかなか時間が取れなくてね。結局、こんなギリギリになってしまった。ぼくのことは聞いてるだろう?」
ニックス・フォーリーは母を見た。母は、ごめん、話せなかったのと消えそうな声で言った。
「──参ったな。でも、もう、手配は済んでいるから出発は動かせないよ。二日後に、ぼくたちはミッドガルを発つ。準備をしておいてくれ」
「どういうこと?」
「お母さんとは何度も話したんだ。やっぱり、きみも一緒に行かなくちゃだめだ。家族なんだからね。ぼくはこれで帰るけど、詳しいことはお母さんから──」
おれはテーブルの上のケーキを皿ごとなぎ払うと床を
皿が割れる音が耳に残っていた。らしくないことをしてしまったと思う。気持ちが落ち着いたら、帰って、母と話そう。知らないことが、たくさんありそうだ。それにしても、二日後の出発とは? いったい、どこへ? いや。どこだろうと、おれは行きたくない。あの男と一緒になんか、どこへも行かない。
二日間、時間をつぶすことにした。時が過ぎてから家へ帰るのだ。そうすれば、ニックス・フォーリーと母の計画はつぶれる。多少気まずいことになるだろうが、仕方がない。そのうち日常が戻ってくるはず──そんなことを考えながら七番街を歩き、八番街の倉庫エリアへ向かった。家出をした十代の、定番の落ち着き先だ。
そしておれは、例の、七番街落下事件に
爆発の瞬間、おれは七番街と八番街の境界にいた。衝撃で街が揺れた時、とっさに八番街方向へ逃げた。直後は何が起こっているのかわからなかった。
ミッドガルをほぼ一周して家に帰り着いたのは三日後だった。最短距離を不眠不休で歩けば一日の行程に三日かかったわけだ。おれは、不案内な八番街で迷い、焦り、走り、汗をかいた。やがて、夜。倉庫と倉庫の間を抜けてきた冷たい風が、
一晩寝ても体調は回復しなかった。しかし、もう宿泊料は払いたくない。母が心配というよりは、ただただ家に帰りたい一心。気力を振り絞り、ノラ猫の
ふらつきながら歩き、休み休み、なんとか三日目の昼過ぎに帰り着いた。家は無事だった。母は留守だったが、いつもどおりなら店にいる時間だ。風邪薬を飲んでベッドへ
出かける直前になってベッドの乱れが気になった。薄い毛布のシワを伸ばし、枕を整えていた時、下に置いてあった封筒に気づいた。中には大金と、母からの手紙が入っていた。おれは手紙を読んだ。予定通りニックスと一緒に行く。行き先は落ち着き次第連絡する。封筒のお金で暮らし、電話を待て。半分は新しい家までの旅費として残しておくように──
母の部屋へ行き、クローゼットの扉を開く。ハンガーには、昼間の仕事用の、少し若作りの服が何着かと夜の仕事用の
食堂から椅子を運び込んで、部屋の中央に置いた。その上に乗って手を伸ばすと天井板の一枚が外れる。静かにベッドの上に放り、ぽかりと空いた四角い穴を見上げる。母はそこに宝箱を隠していた。中には、金と宝物が入っている。金は毎週もらう給料で、宝物は、おれにまつわる「初めての品々」だ。へその
手を突っ込むと宝箱が指先に触れた。奥へ押し込んでしまったらしく
次に見慣れない紙袋を開く。白く、新しい。中を見て驚いた。目も
もうひとつの紙袋は淡いグリーンの、厚手の紙で作られていた。口のテープを
「十七歳の誕生日おめでとう。この鞄が似合う、強い男性になってください。母より」
誕生日プレゼントを用意し、それを隠したまま出て行った母。見栄えの良い男と一緒に消えた母。残された大金と息子。何がどう
割れて落ちた天井板を持って椅子に乗り、元の場所に戻す。次に、最初に外した板。これがうまくはまらなかった。作業をしているうちに腕がだるくなる。気が立ち、やがて、考えまいとしても、頭から追い出せない、腹立たしい事実に向かい合うしかなくなる。母は背が低く、椅子に乗っても天井に届かなかった。身長が母を追い越した頃に、天井裏を収納として使うことを思いついたのは、おれだ。以来、宝箱の出し入れは、おれの役目だった。そのせいで、母の給料や、残額、我が家の貧しさを知っていた。
さて、問題です。たった今見つけた、大金や贈り物は誰が天井裏に入れたのでしょうか?
玄関でおれを見おろした、背の高い男。ニックス・インチキ・フォーリー。あの男が、おれの留守中に、母の部屋に入ったのだ。
おれは作業を放棄して玄関脇へ行き、壁に掛けてある電話機からケーブルを引き抜いた。おれの怒りを思い知るがいい。
なんとか日常を取り戻そうとした。教師のところへも通ったし、友人たちとも語らい、テレビも観た。金を派手に使おうかとも思った。が、ニックス・フォーリーの金かもしれないと思い、止めた。いや。本当は、使い
眠れない夜が続いた。ある晩思いついて、本を読んでみることにした。読書は母の唯一の趣味だ。母の部屋には読み終えた小説が何冊もあった。その中から「ウータイからの脱出・上」を選んだ。理由は一番端にあったから。それだけ。戦争中に書かれた古い小説だった。冒頭からしばらく、ウータイ人が奇妙な格闘技を駆使して収容所の捕虜たちを殺す場面が延々と続いた。やがて間の抜けたウータイ人の
「ウータイの地雷で粉々になって死んでしまった」
母がおれの父親について語った唯一のエピソードだ。この小説から引用したのだろうか。死んで当然のような男とおれの父親を重ねたのか。おそらく、その通り。よほど嫌っていたのだろう。そんな男の息子を、よくも育てられたものだと感心した。いや。そんな男が残した子供だからこそ、いざとなれば、こうして置き去りにできたのかもしれない。愛されていると思っていたが、それは憎しみの裏返しだったのか。おれは「ウータイからの脱出・上」を壁に放り投げた。生き残った四人が下巻でどうなろうと知ったことか。
母の部屋へ行き、改めて本のコレクションを眺める。冒険を題材にした小説ばかり並んでいることがタイトルでわかる。表紙を見ると主人公らしきイラスト。タイプは違うが全員女。そんな小説を愛した母。現実の生活にはない風景と冒険。そして、考えたくもないが、恋愛に胸を躍らせたのだろうか。おれとの生活はそれほど退屈だったのか。苦痛だったのか。
もういい。母は出て行き、おれは残った。母のことを考えるのはよそう。一人で生きることを考えるのだ。
翌日、母が働いていたカフェを訪ねた。四角い顔と広い肩幅が旧型ロボットを思わせる雇われ店長から、母が突然辞めたことに対する文句を延々と聞かされた。多少の覚悟はあったが、想像以上に効いた。しばらく
意外なことに、すぐに働けることになった。オーナーが経営する全ての店に
充実した日々だった。労働の喜びというやつだ。ガラリと風景を変えた日常を、おれは楽しんだ。もちろん、母のことを考えない日はなかった。それでも、四六時中、心を動かされる状態からは脱していた。電話のケーブルは、引き抜いてから十日ほどで元に戻した。もしかしたら、その間に、母は連絡を試みたかもしれない。留守中に電話が鳴っていた可能性もある。しかし、連絡方法は電話が全てではない。何もないということは、やはり、母はおれを捨てたのだ。でも、いい。母さん、お幸せに。おれはおれで楽しくやっている。トラックの運転手は、人使いは荒いが、おれを誰よりも必要としていることがわかった。そんな経験は初めてだった。重労働にもかかわらず、心臓にはまったく不安はなかった。そのことも、自信になった。どうだ、母さん。
そんな毎日がずっと続くと思い始めていた。しかし、状況は激変する。番組の途中で勝手にチャンネルを変えられたようだった。ミッドガル上空にメテオが現れたのだ。天文学の常識を無視して
オーナーは店を閉めてミッドガルを出て行き、隣近所も避難の準備をする人々で騒がしかった。友人、運転手をはじめとする仕事仲間たちが、一緒に遠くへ逃げようと声をかけてくれたが、感謝しつつも、断った。
メテオを見て、生まれて初めて死を意識した。すると、考えることは、気まずい状況で別れた母のことばかりになった。家を出ると、母との繋がりが全て断たれるような気がした。数少ない、母と一緒に映っている写真を眺めてすごした。全ておれの誕生日に写真屋で撮ったものだった。小さなおれはどんどん大きくなり、母と並んだ。追い越した頃から、写真のおれは
そして、迎えたあの日。
これから、その二年後に始まる話をする。二年の間に体験したことも、少しはするだろう。話がわき道にそれないように、なるべく正しいルートを選びたいと思っている。しかし、すでに話したとおり、おれは選択が下手だ。辛抱強く聞いて欲しい。
それから、時々、おれが知らないはずのことにも触れる。事実を下敷きにして、想像で補った。それは、例えば、こんな感じだ。
2 事件はこうして始まった
イリーナが入社した頃、クリフ・リゾートはすでに忘れ去られた保養地だった。巨人が岩を適当に積み上げたような荒々しい風景は確かに珍しい。自然のままの段差を利用して建てられた数々のロッジが風景に
「なんだかな──」
ほんの二年前まで世界の大部分を支配していた巨大企業、神羅カンパニー。そのトップである社長がこんな
「あーあ」
ここでは何も起こらない。広場には幾つかのベンチが置かれ、
* *
「イリーナが退屈しているようだな」
ルーファウス神羅はロッジの窓から離れながら部下のツォンに言った。
「そろそろ次のプロジェクトに移りたいが──」
ルーファウスは言葉を切り、苦労して車椅子に戻った。
「はい。イリーナには近々伝えます。しかし、レノとルードにはまだ内密にしておくつもりです。新プロジェクトの方が刺激的ですからね。内容を知ると、街での仕事がおろそかになりそうで」
「わかった。ジェノバの情報は集まっているのか?」
「いいえ、まだ」
宇宙から飛来した異形の者ジェノバ。それが今現在、どのような姿なのか誰も知らなかった。干からびた肉片なのか、それとも不気味な生物の姿をしているのか。しかし、もし、近くにそれがあれば──あるいは、いれば──絶対にわかるだろうとツォンは信じていた。
「ところで社長。あれを見つけた後、どうするおつもりですか?」
「おやじは──」ルーファウス
「はい」
「
セフィロス。人間とジェノバのハイブリッドであるその怪物は、底知れない戦闘能力を持っていた。力は戦場で存分に発揮され、セフィロスは英雄と呼ばれる存在になった。しかし、身体能力ほどには心は強くなかった。己の出自を知った英雄はジェノバの息子を自認し、その結果、狂った。社に反旗を
「おやじはさっさと退場してしまい、悪夢にうなされたのは残された我々だ。理不尽な話だとは思わないか?」
ツォンは否定も肯定もせずにルーファウスを見ていた。
「わたしはおやじとは違う」
ルーファウスは声に力を込めて言い、車椅子を窓の側に移動させた。広場の、
「終わらせてやる。完全に」
* *
イリーナはロッジ区画の奥に広がる、森の入り口に立っていた。木々の間を抜けてきた
「ちょっとくらい事件起これー」
「巡回! 早く開けて!」
イリーナは
「異常なしですよ」
しばらく洗っていないらしい中途半端な長さの髪を気にしながら、やる気の無さそうな声でスロップは言った。イリーナを見おろす大きな身体にはまったく締まりがない。腹の部分でシャツが
先週までこのホールは薬品の開発ラボとして使われていた。
ホール内に設置されていた装置や備品、医療器具は大部分が
奥の棚には、薬のサンプルが入った密閉式の金属ケースが置かれていた。ケースはふたつあり、ひとつはこの保養所にいる患者用だ。数に限りがあるため、支給記録を残しながら厳重に管理されている。もう一方はWROの準備が整い次第、研究レポート及び製造マニュアルともに引き渡すことになっていた。
「ああ、確認しときましたよ。問題無しです」
薬の棚に近づくイリーナにスロップが言った。
「手順通りやらないと」
「そうっすか──」
不満げな声を背中で聞きながら支給記録を手に取り、金属ケースの
「今日もいい子。問題無し」
イリーナはスロップに聞こえるように言いながらもう一方のケースを見る。外見は同じだが、 こちらは、間違いが起こらないようにシールで封印されていた。
「こっちも問題──」
シールが一度
「スロップ、触った?」
「まさか!」
スロップは即座に否定した。イリーナは腰のホルダーから携帯電話を取って、上司にかける。
「あのですね、ツォンさん。薬のシール、剥がしましたか? 発送用の方です」
上司の返事を聞きながら目の端で
「そうですよねえ。わっかりましたー!」
スロップが出口に向かってじりじりと移動する気配がした。自分──いや、
「撃つぞ」
低く警告するとスロップは立ち止まり、首をすくめた。
「そこに座れ」
休憩用の折りたたみ式の椅子をあごで示して命じると、スロップはノロノロと従った。棚に置いてあった
「ここで待ってな」
外に出ると、ロッジ区画に通じる小道とは別の方向──荒野と森の境界方向に駆け出した。スロップが窓越しに見ていた方角だ。木の根が、張り巡らされた
ほどなく森が終わるというところに獲物はいた。小太りの男がおぼつかない足取りで森を出ようとしていた。
「止まれ!」
驚いたことに逃亡者は素直に立ち止まり、そして振り向いた。汗だくの若い男。天然パーマと思われる黒い髪が額に貼り付き、毛先から汗がしたたり落ちている。丸い顔から四角い黒縁眼鏡がずり落ちそうになっている。森では有利だと思ったのかグリーンのトレーナーシャツを来ていた。ズボンはダーク・グリーンだった。しかし、その姿は立ち並ぶ木々の、薄茶の幹の間で目立つことこの上なかった。その情けない様子にイリーナの力が抜ける。
「見逃してくれ!」
顔を真っ赤にして叫ぶと男はまた駆け出した。
「バカじゃないの?」
イリーナは気を取り直して追う。森から出してはいけない。車が待っているはずだ。どこから来たにせよ、あんな男が荒野を歩いてきたはずはない。
あと少しで追い付くというその時、電話が鳴った。取ると、ツォンの声が聞こえた。走るのを止め、逃げるグリーン男の背中を見る。男は転びそうになりながらも必死で走っていた。
「──はい、すぐに戻ります」
電話を切ると、イリーナはため息をついた。
* *
「さて──」ツォンは足下に向かって声をかけながら、その場にしゃがんだ。椅子ごと床に倒れたスロップが目を泳がせている。鼻血が床を汚していた。
「その、ファビオ・ブラウンはどこに住んでいるんだ?」
3 事件がやってきた
鏡に映る自分の顔を眺めて鼻を
おれは十九になった。ミッドガルを出てから二年。あそこにいた頃より目つきが悪くなったような気がする。望むところだ。ガキの匂いがするものは全て捨ててしまえ。よし、と気合いを入れてから
固い決意にもかかわらず、鉄板や合板を壁紙で隠してしまうとあとはどうでもよくなった。しかし、やめるわけにはいかない。天井用に準備した塗料は、缶が
上半身裸になり、さあ、始めようと思った時、ドスンとドアが鳴った。おれは固まり、ドアを見る。低い位置がまたドスンと鳴る。貧弱な家全体が揺れた。
「ファビオ・ブラウン。いるんだろう?」
静かだが危険な響きを持つ低い声に身が縮む。持っていた
「ドア、壊すぞ、と」
さっきとは別の男だ。笑っているような声。おれは応えず、ブーツを見る。マーケットで見つけたモンスターの皮で、去年作った特注品だ。内側に金属のプレートを仕込んだ、
「三十秒、待ってやるぞ、と」
カウントダウンが始まるようだ。窓ははめ殺しなので割らなければ外には出られない。ガラスは貴重だぞ? 仕方がない。でも何を使う? 何か破壊的な道具はないかと考えた時、悲しい音とともにドアが壊れた。話がちがう。まだ十秒も経っていない。内側に倒れたドアを踏みつけて、燃えるような赤毛の、締まった体つきの男が入ってきてニヤリと笑った。独特のデザインのスーツを着ている。広場でよく見かける二人組の片割れ。ということは最初の低い声はサングラス&スキンヘッドの大男なのだろう。彼らはいつも一緒だ。まるでナイフとフォーク。
「フォークなんか捨てろよ。ケガするぞ、ぼーや」
赤毛は警戒する様子もなく近づいてきた。バカにするな。おれはフォークを突き出して──フォーク?─赤毛に突っこんだ。
「あっ」
「なあ、ファビオ」
赤毛がおれの胸を指先でつつきながら顔を近づける。
「おおっ!?」
それきり黙り、口を開けたままおれを見る。なんだ? と思う間もなく背後からバカ力が首筋を押し出そうとする。息ができない。苦しい。痛い。
「盗んだものを返せ」
何の話だ? 知るか。しかし、知らないことを証明するのは難しい。最善の解答を探せ。
「なんとか言えよ」
スキンヘッドは一瞬力を抜くと、おれの首の後ろで組んだ両手を後頭部へ移してさらに押し出した。
「苦しい──」
「返せば楽になる」
背後で筋肉が動き、同時におれの両足が床を離れた。目に血液が集まってくるのがわかった。そしてついに流れ出す。
「泣くなよ、兄ちゃん。カッコ悪い」
泣く? おれが泣いてる?
「ふん、ガキめ」
不意に背後からの戒めが解ける。おれは崩れ落ち、図らずも赤毛に命乞いをするような格好になってしまった。屈辱的だがどうしようもない。嵐は床に
「ま、モノがモノだ。事情は察しがつくぞ、と。二度としないと誓うならお仕置きだけで帰ってやる」
お仕置きという言葉に身体が勝手に反応する。おくびと震えだ。げふ。ガクガク。認めよう。タフな男に人一倍
「びびらせて悪いな、と」
同情するように赤毛が言った。
「びびらせに来たんだろ」
スキンヘッドが反論した。このまま仲間割れをして、ふたりで殺し合ってくれ。それが無理ならそのまま会話を。時間をくれ。最善の答えを探す時間を。
「なあ、ファビオ。顔をあげろ」
従うしかない。おれはふたりの顔を見た。いつもは遠くから眺めていた二人が目の前にいる。赤毛は不良がそのまま大人になったような
「ここに来るまで、あちこちに恐い顔見せて来たからよ、何もしないで帰るわけにはいかねえのよ。ちゃんと仕事して、おれたちをコケにした奴がどうなるかみんなに教えてやらないとな」
「こ、殺す気?」
答えを探し続けて出た言葉がこれ。しかも声がうわずっている。
「確かに、それが一番簡単だ。でもな、おれたちの目標は、ちょっと怖がられつつも、愛される
「おまえ、おれたちを知っているか?」
スキンヘッドが訊く。おれは急いで三度うなずく。神羅カンパニーのタークス。いい子にしないとタークスが来るよ、の、タークスだ。神羅の二代目社長、通称バカ社長──黒猫をクロと呼ぶような、気の利かない呼び方だが、世間ではそれで通じる。社長が交代してからあっという間に世の中がおかしくなった。それを考えると仕方がないだろう─がビルと一緒に吹っ飛んでから神羅カンパニーがどうなったのかは知らない。しかし、ここにいるふたりは、相変わらず神羅のタークスを名乗っている。その名前が一般人に与える効果を利用しているのだ。タークスは神羅のダークサイド。解決に暴力が必要な問題が生じると彼らが登場する。
「おれたち、だーれだ」
「タークス──さん」
「さんはいらないぞ、と」
「──すいません」
「立てよ」
命じられるままにふらふらと立ち上がった。足はまだ震えてる。赤毛が素早く動いたかと思うと突然顔面に衝撃を受け、おれは部屋の隅に吹っ飛ぶ。数少ない家具のひとつ、三脚の椅子に背中から当たり、一緒に倒れた。右目が痛い。目を殴られた。触れるとべったりと
「こんなもんでいいか?」
「少々ぬるいが──まあ、いい」
おれは床に転がって、ふたりの会話を、背中で聞いていた。やがて男たちが外に出て行く気配がした。全身の力が抜ける。くくく、とか、ひひひ、という声が腹の底から、逆流する胃液のように
「なんだってんだよ!」
奴らに最初に言いたかったことを叫びながら立ち上がる。
「ちょっといいか?」
声に驚き、かつてドアがあった場所を見ると赤毛がおれを見ていた。
「おまえ、おやじは?」
赤毛がまだそこにいたことも驚きだったし、質問の意図も理解できない。加えて、赤毛が何事も無かったかのように振る舞うのも理解不能。
「おまえの父親はどうしてるって聞いてんだよ」
「死にました。おれが生まれる前です」
とにかく早く帰って欲しい。素直に答えればいいのだろう。
「写真か何かあるか?」
「いいえ」
「どんな人だ? おふくろさんから聞いてるだろ?」
「いいえ」
「じゃあ、会ったことはもちろん、顔も知らない、と」
おれはうなずく。どこまでも正直に答えるつもりでいた。
「じゃあ、おふくろさんは?」
「死にました」
少し、
「メテオの時か?」
「はい」
おれの答えに赤毛はゆっくりとうなずく。
「まあ、がんばろうや。もうバカはするなよ、ファビオ」
根本のところを勘違いしたまま赤毛は出ていった。おれはベッドに転がり、出来事の記憶を
おれの家は直径十五メートルほどの円形の中庭に面している。似たような家が中庭の円周上に六軒並んでいる。庭には、役に立ちそうだと誰かが考えた資材、つまりガラクタが積まれている。目立つのは十年落ちくらいの自動車。五人乗りの、ゆったりとした元高級車だ。外観はぼろぼろだし、もちろん動かない。バッテリーさえあれば動くと所有者は言っているが、そんな貴重品はまず手に入らない。所有者はドイルという筋肉男で、この場所に家を建てた
村長の家の赤いドアがゆっくり開いて、男が、おそるおそるという様子で顔を出した。
「ああ、無事だった! 良かった」
何か事情を知っているようだ。おれは
「ああ、結構やられたか。タークスが来たから、とっさにあんたの家を教えちまった。あんた場数踏んでそうだから大丈夫だと思ったんだけど──悪かったよ」
「まあ、いい判断だったと思う」
大部分、本心だった。おれの家を教えた理由が気に入った。日頃の、イメージ作りの成果。
「仕返しするなら爆弾作ってやろうか?」
「爆弾?」
「ほら、崩れかけたビルとか、そういうのをぶっ壊す爆弾。おれ、作ってるんだ」
考えておく、とは言ったものの、タークスとこれ以上関わり合う気はなかった。男は重々しくうなずいてみせるとドアを閉じた。おれは自分の白いドアに鍵をかけると、隣の緑のドアをノックした。そして友人に声をかける。
「ファビオ? エヴァンだけど、開けてくれ」
おれの名はエヴァン・タウンゼント。生まれたときからずっとこの名前だ。
ほどなく、ドアが細く開いた。視線を下げるとおれの腰あたりの高さから見上げる顔があった。
「よう、エヴァン」
「よう」
ビッツ・ブラウン。ファビオ・ブラウンの幼い弟。兄貴の小さなコピーのようによく似ている。緑色のものに囲まれて、兄弟でここに住んでいる。両親は二年前に他界した。落ちてきた七番街の下敷きになって家ごとつぶされたそうだ。兄弟は三番街スラムにいて難を逃れた。そこにはやたらと花が咲き乱れる庭を持つ家があり、ふたりして見とれていたそうだ。もちろん、見ていたのは花ではなく緑の葉っぱ。
「ファビオは?」
「兄ちゃん、出かけちゃったよ。仕事なんだろ?」
「ああ、そうだな」
「目、どうしたのさ」
「これか。転んだんだ。椅子に乗って
「あー、すごい音がしたもんなあ。おれ、それで目が覚めたんだ」
「そりゃ悪かったな」
「いいって。薬のおかげで全然痛くないのに、寝るのはもったいないだろ? どこかへ行きたいと思ったけど、兄ちゃんが留守番してろって言うからさ。本を読んでいるうちに眠っちゃった」
「薬って?」
もちろん、
「星痕の薬ができたのか? 何も知らなくてさ」
「──」
ビッツが、しまったという顔をして視線をそらす。
「ファビオに口止めされたのか? 相手がおれでも?」
「まあ、エヴァンならいいか。実はさ、できたばっかりの、最新の薬なんだって。治らないけど、痛くなくなるんだ。チンツーザイっていうんだろ? 兄ちゃんが医者から特別にもらったんだ」
誇らしげな顔だった。なるほど。おれが暴力と屈辱に耐えた
エッジ。近頃定着した、この街の名前だ。二年前までこのあたりは荒野だった。鋼鉄の都市ミッドガルの東側に広がる不毛の地。そこが今では立派な街になっている。幾つか、ビルの建設も始まっていた。土地は余っているというのに、何故そんなに高い建物が必要なのかおれにはわからない。まあ、おれには関係ない。好きなようにすればいい。エッジは、自由な街だ。
大通りを中央広場に向かって歩く。ミッドガルから東に延びるこの大通りは、最初は、資材運搬用だった。運ばれた資材で建てた家々で大通り沿いが埋まると、街は放射線状に広がり始めた。風景は日々変化している。毎日同じ場所に立てば、街が勢いよく成長する様子がわかる。おれは物事についケチをつけてしまう性分ではあるけれど、その光景には黙るしかない。人間のポジティブなパワーを感じることができる。疲れた時は街を眺めろ。
4 セブンスヘブンにて
ドイル村から集合場所のセブンスヘブンへは中央広場を抜けるのが一番早い。二年近く前、武装都市ジュノンから帰還したという神羅軍の将校が、ここを街の中心にすると宣言した。それをきっかけに広場としての整備が始まった。将校の部下やボランティアが作業に加わった。その将校はほどなく姿を消し、その後、殺されたという噂が流れた。神羅残党の仲間割れだろう。計画自体は有志に引き継がれ、広場は一応完成した。しかし、今でも毎日五十人くらいのボランティアが作業をしている。日によっては百人を超えていることもある。彼らは広場に
「よう」
広場の中央、慰霊碑の骨組みに寄りかかって赤毛のタークスがおれを見ていた。しかも手招きしている。
「ファビオ、おまえも一緒にやらねえか?」
拒否すると面倒なことになるのだろうか。しかし、彼らの仲間になどなりたくない。最良の返答を探しながら歩いていると、赤毛は誰かに呼ばれたらしく、作業に戻っていった。おれは、鉄骨が崩れて赤毛が死にますようにと祈りながら歩き続けた。
さらに広場の外周を三分の一ほど回って、放射状に広がる道の一本に入る。この街の、まだ短い歴史の、その中でも特に初期に作られたこの通りはおれのお気に入りだ。他のどの通りよりも快適に
おれたちが仕事の打ち合わせによく使うダイナー、セブンスヘブンは、この、ご機嫌な通りにある。見事な胸の、ティファという二十代半ばの美人が店を切り盛りしている。マリンという、少々生意気ではあるけど、将来、やはり美人になることが約束されたような顔立ちの女の子がティファを手伝っていた。
「いらっしゃい」
ティファが静かな微笑みでおれを迎える。多くの男たちは胸に目を奪われるのだろうが、おれは彼女の穏やかな笑顔に心
テーブルには仲間が顔を揃えていた。こっちに丸い顔を向けている黒縁眼鏡がファビオ・ブラウン。ビッツの兄貴。たいていグリーン系の服を着ている。今日は明るいグリーンのシャツ。もしグリーンの眼鏡フレームがあれば喜んで使うだろう。ファビオはおれに気づかず、目の前のコーヒーカップを
「やあ」
いつまでもおれに気づかない三人に近づき、声をかけた。レズリーがおれを見て
「ほら、やっぱりその帽子似合う!」
キリエがはしゃぐ。
「うん、悪くない」
おれは背中に回していたショルダーバッグを前に移動させながら空いている席につく。
「エヴァン、どうしたの、それ」
おれの顔を遠慮なく指さしてキリエが言った。大きな目がさらに見開かれている。
「実は──」口を開きかけて、ファビオがまだ顔を上げていないことに気づく。それはないだろう、ファビオ。「それよりファビオ。出かける時は声かけろよ」
「ああ、ごめん」ファビオはのろのろと顔をあげ、やっとおれの顔を見た。「それ、どうしたんだ?」
「タークスがふたり来た」
おれは挑むように言った。
「もしかして──」
ファビオが不安そうに言った。
「ビッツは無事だ」
弟の無事を伝えるとファビオは露骨に
「二人だけで話さないで。タークスって、あのタークス? ビッツが無事ってどういうこと?」
さて。事実はひとつ、真実は人の数だけ。ここはおれの真実を語らせてもらおう。家にタークスが来たところから話を始める。おれの言動が情けなく聞こえないように気を配った。そして赤毛とスキンヘッドの凶暴さを
「エヴァン、ごめんな。おれのせいで、ほんと、ごめん」
「いいよ。ビッツがひどい目にあわなくて良かった。奴ら、子供だって
「ファビオ、何をやったんだ?」
レズリーが訊いた。もう少し話題の中心にいたかったが仕方がない。
「
「無謀」キリエが口を尖らせる。「ほんと、無謀。それに、がっかり」
「いろいろ偶然が重なってさ。村長んちに居候しているキーオの友達が、薬の倉庫で警備しているって聞いて──」
キーオは赤毛たちにおれの家を教えた、
「キーオは友達に貸しがあって、おれはキーオに貸しがある。それを一切合切チャラにするって約束だった。だからおれはキーオの友達──スロップって言うんだけど、そいつが警備を担当する時間に行って薬を受け取った。基本、それだけの話」
腹が立った。それだけの話? おれの右目を見ろ。
「薬は効いた? ビッツは?」
「うん、かなり調子いいみたいだ。でも、効果が切れたらどうかな。一時的に楽になった分、次はもっと
「あくまでも一時的、か」
「何もないよりマシだよ」
このまま話が終わってしまうのは気に入らない。蒸し返す。
「チャラじゃないだろ。タークスが来たんだぞ。おまえご指名でさ。奴らはどうやっておまえの名前や家を知ったんだ? 本当に終わりなのか?」
「そうか。スロップがゲロしたってことか。
ファビオは頭を抱え、両手で髪の毛を
「無事だと思うけどな」キリエが柔らかく言った。「スロップって人、ひどい目にあわされたかもしれないけどね。でも、エヴァンはここにいるでしょ? 殴られたけど、生きてる。その程度の罰で、あっちの気は済んでるってことじゃない?」
キリエが自責の念に
「でも、タークスは冷酷な殺人集団だぞ」
キリエが出した船を沈めようと、おれは言った。
「あのねえ、ファビオ」キリエはおれを無視して続ける。「スロップを助けに行こうなんて考えないでよ。
「キーオのコネで小型のトラックを借りられたんだ。全財産を取られたけど」
「途中にはモンスターだっているし」
「それが、出なかったんだ。日頃の行いがいいからかな」
ファビオ。その口癖は、今言うべきではない。キリエも同じように思ったらしく、眉をひそめる。
「おれもこの件は終わりだと思う」黙って聞いていたレズリーが口を開いた。「おれが聞いた話じゃ、その薬の量産体制が整いつつあるらしいからな。広く出回るなら、向こうとしても、ファビオが盗んだぶんにこだわる必要はない。人違いとはいえ、罰は与えたわけだしな」
「どうせそれで商売するつもりなんだろ?」ファビオが声を荒げる。「エネルギーの次は薬。汚ないんだよ、神羅は」
筋金入りの神羅嫌い。七番街の崩落事件は神羅カンパニーの自作自演だという噂があるらしく、ファビオはそれを固く信じていた。
「ところがファビオ、驚きなんだ」レズリーが黒い手袋をした左手を突き出してファビオをなだめる。「薬はWROが作って、しかも、無料で配布される」
「まさか!」
「ただほど高いものはない」おれは、言わずにはいられなかった。「それにWROのリーダーだって元神羅のお偉いさんだろ? 結局、繋がってるんだ。奴ら、巧妙にカムフラージュしてるけど、目的はひとつ。神羅ワールドよ再び、だ」
声が大きかったかもしれない。周囲の客の視線を感じる。
「WROは悪くないと思うけど? 目的は治安維持でしょ?」
キリエがおれを否定した。もう引き下がれない。
「そのうち秩序の維持って言い換える。今はモンスターに向けている銃を、街の中に向け始める」
根拠などない。言い過ぎだと自分でも思う。
「どうしたの、エヴァン、からむじゃない?」
「目が痛いんだよ」
「おれは神羅でもWROでもいいんだ。あちこちで生まれては消える、明日の世界を考えるサークルみたいのが出張ってきても構わない。選択肢が多いのはいいことだ。自分の力で人生を切り開いていける時代だからな。やりたいやつは勝手にすればいい。良いと思ったらおれは支持するし、気に入らなかったら背を向ける」
レズリーが持論を展開する。
「目が痛い」
しつこいのは自覚している。レズリーの意見もその通りだと思う。しかし、おれはもう自力では止まれない。誰か、頼む。
「それで、神羅なんだけど」レズリーが一瞬おれを見て続ける。「さっきキリエは、奴らの気が済んだって言ったよな。それもあるけど、実は、もっと深刻な問題を抱えていると思う。エヴァンを殺さなかったのは、悪い評判が立つと困るからだ。そっちの理由の方が大きい。何故か。神羅を名乗る連中には、その悪評を跳ね返してねじ伏せるだけの力が無い」
「だったらいいけど──でも、レズリーの想像だろ?」
ファビオが心配そうに言った。
「考えてみろよ。大事な薬品の警備に、友達への借りを返すために泥棒の手引きをするような奴を使ってる。これはどういうことだ? ザ・人手不足」
「そう言われればそうだ」
ファビオは納得し、キリエは頼もしそうにレズリーを見ている。
「広場のタークス以外にも神羅を名乗る奴はたまにいる。でも、大きな勢力にはならない。理由を考えたことはあるか?」
キリエとファビオが首を横に振る。おれは縦に振る。やってしまった。しかし、レズリーが口を開き──
「神羅って言うと、あの馬鹿でかい会社を思い浮かべてしまうから、わからなくなるんだ。思い出せ。神羅ってのは、人の名前だ。初代と二代目。この二人が世界の中心だった。今じゃ極悪人扱いだけど、世界は実質、あの親子が動かしていた。末端の社員はともかく、上へ行けば行くほど、社長を恐れ、同時に心酔したって話だ。二代目はバカ社長だなんて呼ばれているけど、きっと
「結構ハンサムだったよね。そういえば、エヴァン、ちょっと似てる?」
「なんだよ、それ」
「冗談。で、神羅が大きくなれない理由は?」
おれに聞くのか?
「バカ社長──」レズリーの話を参考にして、当てずっぽうで答えるしかない。「ルーファウス神羅が死んで中心になるカリスマがいないから、組織に魅力がない。人が集まらない」
レズリーがうなずいたのを見て、ほっとする。
「待って。だったら、
キリエがファビオに聞いた。
「それは、元神羅の化学者たちと、いろいろ手配したタークスらしいよ。社長の姿なんて見たことないってさ」
ファビオが言った。
「ふーん。ってことは、神羅、恐るるに足らず。これでいい?」
「用心にこしたことはないけど、まあ、大丈夫だろ」言ってからレズリーはおれを見る「それにしても、エヴァン。おまえ、凄いな。人違いだってことも言わずに、よく耐えた。さすがだ」
それを最初に言ってくれ。
「巻き込んで本当にごめん。この恩は必ず返す。命
ファビオが頭を下げる。
「そんなもん、賭けるなよ」
おれはファビオの眼鏡のレンズを指で押して、グリグリと汚す。
「やめろよぉ! おれの一番嫌いなやつ!」
ファビオが笑いながら抗議する。これで、チャラにしてやる。
「じゃあ、今日はこれで解散!」
キリエが宣言する。男たちは笑うのを止めて彼女に注目する。
「仕事は? 作戦会議」
レズリーが当然の質問をする。全員、そのために集まったのだ。
「それはですね」キリエは目を伏せる「お客さんが来るのは今日、これからだった。わたし、昨日だと思ってました」
「じゃあ、今日は無し?」
「そういうことかな」寒くもないだろうに、キリエは
「いいけどさ」
「電話があればなあ。ぱぱぱって連絡できるのにね」
キリエはため息をついた。電話は、難しい問題だ。あんなに当たり前に、誰でも持っていたというのに、今は製造されていないので数が圧倒的に不足している。例の、メテオ騒動以前から持っている連中はけして手放そうとはしない。たまに出回る時は、バカバカしい値段が付けられているのが常だ。それでもすぐに店頭から消える。かと思うと、どこかの倉庫にあったものが気前よく、タダに近い値段で放出されることもある。その場に居合わせたらラッキー。電話を持っているかどうかで、そいつの、運、不運がわかるとすれば、おれたちは、不運の
「じゃ、行こう」
キリエは席を立ち、カウンターへ向かう。今日はボスの
ドイル村へ帰るファビオと別れ、キリエ、レズリー、おれの三人はスラムへ向かった。仕事用のオフィスがスラムにある。そこでも打ち合わせはできるが、おれたちは皆、セブンスへブンで会って話すのが好きだ。店自体が気に入っているのはもちろんだが、それよりも、わざわざ金を払って飲み食いや仕事の話をすることは、ちょっとした優越感──という側面もあるのかもしれない。他の連中は知らないが、少なくとも、おれにはある。内緒だ。
「次の仕事、金になりそうかな」
レズリーが努めてさりげなくという調子で言った。
「このあいだのミセス・リッチの紹介だから、期待できるかもね」
金持ちそうな女性客は全てミセス・リッチだ。
「だといいな。ちょっと金を貯めたくてさ。おれ、女と住み始めたんだ」
「わお」キリエが
「二ヵ月くらい前だな。実は、あいつ、妊娠してる。生まれるのは七ヵ月後」
「へえ──」
予想外の告白に、おれは言葉を無くす。
「良かった。レズリー、本当に良かった」
しばらく歩いてから口を開いたキリエの声が、かすれていた。なんでおまえが泣くんだよとレズリーがからかう。だって、いろいろあったから、それ思い出したら──
「相手、どんな人?」
おれは口を挟む。キリエとレズリーはおれよりずっと古い知り合い同士だ。ふたりの昔話を楽しめたことは一度もない。
「名前はマール。今度みんなに紹介する。ああ、悪い。おれ、ちょっと寄り道して帰るわ」
話を打ち切り、そそくさと、レズリーは離れていった。残されたおれたちはその背中を目で追う。灰色頭の男が向かう先には、小さな荷車で果物を売っている婆さんがいた。おそらく、ぼったくりの果物屋だ。二年前からこっち、果物が安かったことなど一度もない。昔は見向きもされなかった、ほとんど味の無いものでさえ高値で取引されている。
「あれじゃあ、幾ら金があっても足りないよな」
「うん、仕事、増やした方がいいかも」
おれたちは並んで、婆さんと交渉する友人の姿を見ていた。身振り手振りで、妊娠中の恋人のことを伝えているレズリーは見物だった。やがて折り合いがついたらしい。赤い果実を二個受け取ると金を払い、立ち去ろうとした。すると婆さんが呼び止め、黄色の、小さめの果物を三個、レズリーに渡した。
「この先も一緒にやってくれるかなあ」
「その時はその時。おれが今の二倍働く」
キリエは何も答えず、歩き出した。おれは居心地の悪さを感じながら、続いた。
5 イリーナの
「はーい、了解しました」
電話に向かって明るい声で言ったもののイリーナは了解も納得もしていなかった。レノはファビオを一発殴っただけで解放したらしい。命は奪わないにしても、ひと月はベッドから出られないようにしてやるのが
「おれ、どうなるんすか?」
昨日から椅子に縛られたままのスロップが情けない声で言った。鼻血が渇いて、頬に薄汚くこびりついていた。
「死ぬんじゃない?」
「助けてください。おれ、神羅軍にいたんです。仲間じゃないですか」
こういう男が最もタチが悪い。まだどこかで神羅の名を汚すようなことをするかもしれない。イリーナは尻ポケットから革製の手袋を出して手にはめ、スロップの前に立った。
「何をしている」
背後からかけられた声に慌てて振り返ると戸口にツォンが立っていた。
「わたしは──」悔しいんです。イリーナはその言葉を