6 ミレイユ探偵社


 おれとキリエは大通りの終点──スラム育ちの連中は起点と呼ぶ──つまり、エッジとスラムの境界あたりを歩いていた。ここで街の雰囲気がガラリと変わる。スラムはまるで迷路だ。その迷路を軽やかにキリエは進む。ステップを踏むように歩くキリエの足もとを見ながら、おれは、ノロノロと付いていく。キリエの後ろを歩くのが好きだった。理由は、言えない。

「ファビオ、もう泥棒はしないって約束したのに」

「でも、ビッツのためだから仕方がない。あいつの立場ならおれも──」

 おれはしないだろう。いや、できない。計画くらいはするかもしれないが、同時に、実行しない理由もどこからか見つけ出すのだろう。そんな気がする。

「ルール違反だけど、どうする? 本当ならクビ」

「許してやろう。誰もいなくなる」

「ライフストリーム曰く──」キリエが突然言った。「エヴァンだけはずっと残る。なぜなら、彼はそれが最善の場所だと知っているから」

 その予言が本当ならどんなに楽しいだろう。

「ライフストリームは予言なんてしない。そんな設定はない」

「予言も有りにすれば良かったな。そしたら大金持ちになれたと思わない? コスタ・デル・ソルで遊んで暮らせるかも」

「いや、リンチされてミッドガルの支柱につるされる」

「こわっ」


 おれたち──キリエ、レズリー、ファビオ、おれ──は探偵社を営んでいる。輝かしきその名はミレイユ探偵社。ミレイユはキリエのお婆さんの名前を借りた。お婆さんは生涯をとして過ごした人だ。探偵社の名前としてはふさわしくないが、キリエが気に入っているのだから仕方がない。ちなみにキリエの両親は腕の良い──という言い方はどうかと思うが──スリだった。キリエ自身も、探偵を始める前は、当然のように、犯罪によって生計を立てていた。おれたちの出会いがどんなものだったか想像がつくというものだ。

 ミレイユ探偵社の主な業務は行方不明者を探し出すこと。開業して、ほぼ二年になる。ミッドガルほうかいから一年ほどの間は、人口の半分がライバルではないかと思うほど探偵は多かった。時間を持て余している者は大勢いたし、失われた誰か、何かを探している人も多かった。しかし、今は、探偵も依頼人もあまりいない。世の中が落ち着いたせいだ。ほとんどの人、物がしかるべき場所に落ち着きつつある。パズルが完成しつつあるのだ。でも、じゅようが減ったといってもゼロではなかったし、加えて、商売上のちょっとしたアイディアのおかげで、日々の生活には困らない程度に仕事にありついている。


《ライフストリーム、読みます》


 それがミレイユ探偵社の宣伝文句だ。キリエが特殊な能力、つまり、ライフストリームに秘められた様々な情報にアクセスする力を使って、しっそうしゃや失せ物を見つけ出すというのがおれたちの特徴だった。一年ほど前、十七日間連続で依頼人がなかった時にキリエが提案した。もちろん、彼女は生まれながらにしてそんな能力を持っていたわけではない。いや、今でも、ない。レズリーは面白がったが、おれとファビオはかいてきだった。いったい誰が信じる? しかし、驚いたことに、これが当たった。ライフストリームにはこの世を去った者たちの知識、記憶が溶け込んでいるというヨタ話を信じている人は意外と多かったということだ。おれが無知なだけで、実は本当のことなのかと思ったくらいだ。実際のところ、おれたちが依頼を受けて、対象を見つけることができる確率は二割もない。それにもかかわらず、数少ない成功例が口コミで広がり、依頼人が二日にひとりはあった。着手金と成功報酬をもらうことにしていたので、着手金だけでも、四人の生活を支える程度には稼ぐことができた。けして詐欺ではない。キリエが、足を使って情報を集め、依頼人のために誠意を尽くすという、正しい探偵の姿にこだわったからだ。入り口と出口はインチキだが、中身は真っ当だ。

 依頼の多くは、二年前、ライフストリームが吹き荒れた日に行方不明になったままの人か、なくした物の調査だった。ミッドガルやエッジに限ってしまえば、世界はそう広くはない。調査対象が生きていて、依頼人と会いたいと思っていればすでに再会を果たしているだろう。物の場合は、完全に失われたか、人手に渡ってしまい、もう世に出ることはない。二年というのはそんな時間だ。つまり、今、おれたちに頼る客は、半ばあきらめている人たち。これでダメなら諦めようと思っている人たち。そんな彼らにとってミレイユ探偵社は最後のとりでなのだ。だからこそおれたちは誠実に捜索する。全員で集めた情報を下敷きに、ライフストリームというおとぎ話の要素を加味して、真面目にエピソードをつむぐ。キリエはそれを、心を込めて依頼人に聞かせる。成功の場合はもちろん、失敗しても、客は、それなりに満足して帰ることができる。これほど人の心をなぐさめる仕事が他にあるだろうか。


「今日の客はどんな人?」

 前を行くキリエに声をかける。

「今日はアールドさんって人。ぜいたくは言えないけど、依頼人は女の人がいいな。男の人って、すぐ勘違いするから」

 キリエが客として知り合った男に言い寄られたことは一度や二度ではない。

「キリエは、まあ、魅力的だからな」

 おれはいつものように、ごく控えめに好意を伝える。

「そりゃどうも。レズリーはねえ、わたしには隙が多いって言うけど」

 レズリーに一票。

「とにかく、今日はおれが一緒だ。変なことにはならないよ」

 アールド氏がヨボヨボの爺さんでありますように。


 オフィスはスラムの奥まった所にある。元はキリエが家族と住んでいた家だった。家族といっても、おれが出入りするようになった頃には、すでにミレイユお婆さんしかいなかった。両親はたちの悪い奴の財布をスリ取って、その結果殺されてしまったそうだ。せいさんな話だが、その話をしてくれたのはミレイユお婆さんだったので、どこまで信じて良いのやら。やがてそのお婆さんが風邪をこじらせて死んでしまい、キリエはひとりになった。しばらく落ち込んでいたが、悲しみを封じ込めると、彼女は家をオフィスに改造した。おれとファビオ、レズリーの知り合い何人かで資材を集め、キリエの指示でそれらしく作り上げた。

 オフィスに来た客が最初に目にするのは大きなテーブルだ。こくたんの天板は見事なものだが、脚はスラムで拾ってきた無愛想な鉄の棒だった。それを隠すために黒い布でぐるぐる巻きにしてある。テーブルの上には「ライフストリームを読む」という特殊能力を持つ女の雰囲気作りに役立つと判断されたものが雑多に置かれている。古い虫食いだらけの本、魔法使いを思わせる杖、丸い手鏡、何枚もの古い風景写真。背後の壁には、とげとげしく、不気味な山を描いた風景画、カーテン代わりのひらひらした黒布。明るい中で見るとガラクタの集まりなのだが、カーテンを閉めた薄暗い部屋の中、黒いフード付きのローブをかぶったキリエが席に着くと、客は神秘の世界が放つ魔法にかかってしまうのだ。

「着替えてくる」

 キリエは奥の私室へ行き、おれは定位置に座る。ドアの横に置かれた三脚の丸椅子だ。ほどなく、キリエはローブをってオフィスに戻ってきた。靴を脱ぎ、素足になっている。地下を流れるライフストリームを感じるために、仕事の時はいつも素足──という設定に従って。

「そろそろ来るはず。よろしくね」

 おれはうなずきながら、ショルダーバッグからノートを出してメモの準備をした。

「さっきより、濃くなってる」

 キリエがおれの顔を指さしながら言った。ほとんど痛みはなかったが、顔をしかめてみせる。

 ドアの外に人の気配がした。おれは客を迎えようと立ち上がる。ドアが開き、額が禿げ上がった老人が入ってきた。七十歳くらいだろうか。背筋がしゃんとして、身長はおれとそう変わらない。ヨボヨボではないが、スキンヘッドのタークスのような男でもなかったので、おれはあんした。手には暗い黄色の紙袋を持ち、古いが、仕立ての良さそうなチャコールグレーのスーツを着ている。物持ちは良さそうだ。報酬は期待できる。

「アールドさんですか?」

「そう。タイラン・アールド。あんたが──」

「キリエ・カナンです。アールドさん、どうぞソファへ」

 キリエは仕事用の低い声で、テーブルに面したふたり掛けのソファを勧める。

「では、失敬」

 アールド氏は座ってしまうと弱々しい老人に見えた。肩を落とし、背中を丸めたせいだろう。

「後ろに控えているのはろくしゃエヴァンです。どうかお気になさらず」

 アールド氏は首をねじ曲げて振り向くと、おれにうなずいてみせた。記録者エヴァン。何やらじゅうこうな響きが気に入っている。

「よろしくお願いします」

 おれは静かに言った。神秘の演出に静けさは不可欠だ。

「これは──いささか緊張しますな」とアールド氏。

「それでいいんですよ。常ならぬ緊張状態はライフストリームを呼び寄せますから」

 うそばっかり。

「では、さっそくお話を」

 キリエがうながすとアールド氏は上着の胸ポケットから何かを取り出した。おそらく写真だろう。

「これを見てください」

 思った通り、アールド氏が差し出したのは写真だった。キリエがテーブル越しに手を伸ばして受け取る。

「前列の右端にいるのが息子のグールドです」

 グールド・アールド。グールド・アールド。おれはそのリズミカルな名前を頭の中で繰り返した。

「ちょっと長めの髪の?」

「そう。だらしないですな」

「いいえ。では、ご依頼はこの息子さんを探すということでよろしいですか?」

「いかにも」そしてアールド氏は身を乗り出して「何か、その──感じますかな?」

 キリエは写真を見つめながら、アールド氏を押しとどめるように手のひらを見せた。

「お時間をいただけますか? そうですね、十日ほどでしょうか」

「ほう──ずいぶんかかるものですな」

「ご存じのとおり、ライフストリームは星を巡り、常に移動しています。息子さんに繋がる記憶を捕まえるには少し時間がかかるのです。ご期待に添えず──」

「いや、結構。そういうことであれば待ちましょう。わたしはそっちの方は、全然知りませんからな。いや、正直に言おう。信じてもいない」

 おっと。おれは警戒した。たまに、興味本位の冷やかしもいるのだ。

「では、どうしてここへ?」

 キリエは落ち着いていた。

「できることはすべてやった。そう思って落ち着きたい──それが本音です」

「わかりました。でも、きっと最後にはライフストリームの力を信じて頂けると思いますよ。それで、息子さんが行方不明になったのは、やはりあの日ですか? メテオをライフストリームが消し去った、運命の夜」

 キリエがライフストリームをやたらと強調する。信じていない相手にはやり過ぎかもしれない。

「もっと前ですな。息子はしんぐんのソルジャーで、まあ、セカンドですから、たいしたことはありません。それが特別な任務でしばらく留守にすると連絡をよこしたきり──その写真は後で届けられたものです。後というのは、ほれ、あんたの言う、運命の夜の後。わたしはミッドガルに留まっていたものですから、受け取ることができたわけです。すぐにでも逃げ出したかったのですが、足をくじいてしまいましてね。しかし、そのおかげで息子の手がかりを手に入れたわけで──足を痛めたことは、きっちょうなのではないかと思って、ずっと行方を探しているわけです」

「この写真の場所は?」

「この二年、いろんな人に見せてまわりましたが、結局わからないままです」

 アールド氏の背中がますます丸くなったように見えた。キリエが写真をおれに渡そうと差し出したので、立ち上がり、ソファ越しに受け取った。前列の右端。すぐにわかった。ソルジャーの制服のせいだ。ソルジャーは、いわば、しんぐんのエリート兵士。子供時代は誰もがソルジャーに憧れる。おれも一時期、そうだった。が、実際になろうとする者は少ないらしい。おそらく不気味な噂のせいだ。彼らは常人とは違う能力を身につけるために、体内に特殊な物質を埋め込むとか、こうエネルギーのタンクに何日もかるとか、いろいろ言われていた。

「写真はどのようにして届いたんですか? 世の中が混乱している頃ですよね?」

 キリエが聞いた。おれも疑問に思っていたことだったので、写真を膝に置いて、アールド氏の後頭部に意識を集中する。

「──ある夜、ドアをノックする者がいましてな。息子はノックなんてするような奴ではないし、知り合いはミッドガルを下りてしまっていたので──わたしは警戒して出なかったのです」

「お気持ちはわかります」

「かなり遅い時間でしたから、わたしは眠ってしまいました。そして翌朝、気になったので、ドアを開いてみたところ、男が倒れていました。オートバイ乗りの服を着た、背の高い男です。耳や口から黒い液体が流れ出していました。今でこそせいこんしょうこうぐんだと知っていますが、あの時、わたしは初めて見たのです。肝を冷やしましたが、男が、かすかに動いて、しかも、息子の名を呟いたような気がして、そうなると放ってはおけません。家の中に引き入れてやったのです」

 アールド氏が黙った。当時のことを思い出しているのだろう。

「ほどなく、そう、三十分もしないうちに男は死んでしまいました。それまで、わたしはなんとか息子のことを聞き出したくて何度も話しかけましたが、もう意識がこんだくしていたようで、結局、聞けずいです。その後、身元が確認できないか衣類を探ると、それと同じ写真が十枚ほど出てきました。その他にも、個人の写真が何枚かありましたな。それを見たわたしの後悔と言ったら──この男は間違いなく、息子の消息を伝えに来たに違いない。なぜわたしはすぐにドアを開けなかった──」

 そしてまた黙り込む。あの時こうしていれば。ああしていれば。選ばなかったせんたくを思うと人生後悔ばかりだ。おれは、そういうタイプの後悔の塊だ。アールド氏の気持ちが手に取るようにわかった。

「アールドさん。ご依頼の内容はわかりました。でも、ソルジャー探しは通常より難しいので最初に申し上げた時間よりも多く頂くことになるかもしれません。ご了承いただけますか?」

「時間は構いませんが、難しいとは?」

「ソルジャーはライフストリームの影響を受けやすいのです。息子さんがソルジャーだとすると、そのご友人たちもまたソルジャーである確率が高いですよね? つまりもし息子さんに関する情報を持っている人がソルジャーで、かつ、亡くなっていた場合──」

 キリエが嘘を並べ立て、アールド氏がそれを聞く気になったのを確認するとおれは写真に戻った。古めかしい屋敷──ミッドガルにはなかったタイプの、石造りの大きな屋敷──の前に立っている十五人の男女が写っていた。年齢は二十歳前後、いや、何人かは中年といってもいいだろう。どこかの村の住人たちと派遣されてきたソルジャーの記念写真。そんな感じだった。ほとんど笑顔のない、記念写真としては不思議な印象の写真だ。笑顔を見せているのはグールド・アールドと──

「それでは、よろしくお願いします」

 アールド氏が席を立った。

「アールドさん!」

 声がかすれた。アールド氏とキリエが驚いておれを見た。

「ああ、失礼」アールド氏がうなずきながら言った。「着手金ですな」

 そして持ってきた紙袋をキリエに渡す。

「それは息子が入隊直後に会社からくすねてきたものです。許されないことですが、今となっては、誰も文句は言わんでしょう。では、連絡をお待ちしていますよ。連絡先は、袋の中です」

「ちょっと待ってください。アールドさん、この写真を持ってきた男の名前はわかりませんか?」

 おれは聞いた。

「ああ。写真の裏をご覧なさい」

 言われたとおりに写真を裏返すと、男の名前と電話番号が記されていた。

「その電話は通じませんでした。そもそも当時はミッドガルの電話は不通になっていましたからな」

「他にも個人の写真があったんですよね?」

「そう。ろうにゃくなんにょいろいろありました──おそらく、集合写真の人たちの家族なんでしょうな。全部裏に同じ連絡先が書いてありました。想像ですが、あの男は、離ればなれになっている家族を再会させるために病を押して歩き回っていたのではないかと──」

「その写真はどうしたんです?」

 おれはアールド氏をさえぎって聞いた。

「誰かの役に立つかもしれないと、駅の掲示板に貼っておきました。二年近く前なので、もう無いでしょうが──」

 アールド氏は残念そうに首を振り、出ていった。

「ねえ、エヴァン、すごい! アールドさんがくれたの、なんだと思う? マテリアが二個。ってことは成功したらもう二個ってこと?」

「キリエ──」

「前は時々お店で売ってたよね。いくらだったかなあ。ちゃんと見ておけば良かった」

「駅へ行かないか?」

「今から?」

「うん。掲示板が見たい」

「アールドさんが貼った写真を探すの? 二年前でしょ? もう、ないよ」

 キリエは、マテリアに心を奪われているようだった。

「それもそうだな」

「ねえ、これを使ってソルジャーは戦ったんでしょ? 訓練次第では魔法みたいな技も使えちゃうんだよね」

「おれ、帰るよ」

「え? ごはん食べに行こうよ」

 やっとマテリアから目を離しておれを見た。

「うん、今日は帰る。なんか調子悪くて」

「大丈夫? 目? タークスにやられたところ?」

 キリエが、心配そうにおれの顔をのぞき込む。

「どうだろう。寝ればなんとかなると思う」

 目をそらさないように努力して応えた。

「ちょっと待ってて。着替えたら、送るね」

 キリエはそう言って、奥の部屋へ入っていった。おれは机の上にあったメモ用紙に、明日、同じ時間にセブンスヘブンで、と書き残してオフィスを出た。


 スラムの道には未だに慣れていない。近道をしようとすると確実に迷う。それがわかっているのに、当てずっぽうに曲がり、案の定、迷った。駅に着いた時には、柱時計の針が頂点で重なりかけていた。おれはホーム近くの掲示板に駆け寄る。街のあちこちに立てられている掲示板のひとつだ。何枚ものメモが押しピンで乱雑に貼り付けられている。風雨にさらされて判読不能なものからついさっき貼られたものまで。おれはタイラン・アールド氏が貼ったという写真を探した。二年前のものが残っていると期待したわけではない。しかし、確認せずにはいられなかった。もちろん、なかった。期待したわけではないのに、裏切られたような気がした。腹立ち紛れに、掲示板の支柱を蹴りつける。振動で、貼られていたメモが一枚、足下に落ちた。文面が目に飛び込んでくる。

《パパ、ママ、わたしはリズおばさんの家にいます セディ》──下手くそな子供の字だった。

 おれは慌てて、そのメモを掲示板に戻そうとした。しかし、ピンが見当たらなかった。仕方なく、掲示板から、広告らしき内容のチラシを一枚がしてポケットに押し込み、そのピンで、見知らぬセディの貼り紙を元に戻した。


  7 結局やられたファビオ


 イリーナはファビオ・ブラウンの鼻血で汚れた手袋を外すと、ベッドの上でおびえている子供に近づき、これ見よがしにグリーンのシーツで手袋をぬぐった。床でファビオがうめいた。腹を押さえている。全身が引きるように動くと同時に口のから血が流れた。

きょうな奴」

 利き腕をへし折るつもりで乗り込んできたが、ファビオが弟のために抵抗する姿を見て方針を変えた。来訪の目的は泥棒の制裁であり、せいこんの子供から保護者を奪うことではない。薬を盗み出し、金儲けを企む小悪党を想像していたが、実際はそうではなかった。泥棒は泥棒らしく卑しく笑いながら言い逃れをするか、開き直ってふてくされなくてはならない。背後にある事情を見せるなど卑怯者のやることだ。

 イリーナはベッドの枕元に置かれた錠剤のシートを奪い取ると部屋を出ようとした。しかし、思い直して、子供に投げつける。

「慣れると効かなくなるから本当に辛いときだけにしておきな。子供は一回に四分の一じょうでいい。中毒になるからね」


  8 暴走した夜


 バッグをいつもの場所にしまい、帽子とジャケットを壁に掛ける。ブーツを脱いでスリッパにき替える時に、つま先の傷に気がつく。掲示板を蹴った時についたのだろう。ごうとく。でも、オイルで少しみがいておこう、と思いながらも面倒になり、ベッドへ倒れ込む。なんて一日だ。目を閉じて、睡魔よ、来いと願う。しかし、どこにもその気配はなかった。おれは大きく息を吸い込み、そして吐く。首を曲げて部屋を見回す。今朝、ここを出た時のまま。散乱する家財道具。こぼれた塗料で淡く光る床。よし、片付けてしまおう。ひとつひとつ片付けよう。ミッドガルを出てから学んだこと。何事も、引きずるな。

 ベッドから出ると、まず、散乱している日用品を確認する。捨てなくてはならないものはないようだ。軽く洗ったり、拭いたりしながら、しかるべき場所へ戻す。せいせいとんは子供の頃からの習慣だ。頼りになるなあ、とおれをおだてる母の声を思い出す。ベッドへ行き、薄いマットレスの下に手を突っ込んで母の写真を探す。ミッドガルから持ってきた数少ない思い出。

「母さん、何してるんだ?」

「エヴァン?」

 おれの独り言に答えるように、ドアの外から声が聞こえた。消え入りそうなビッツの声だった。ビッツ? 開いてるよ。しかし、返事はない。真夜中に聞く子供の声は、おれを不安にする。普通ではないことが起こっている報せ。慌ててドアを開く。ビッツはおれを見上げ、そのまま崩れ落ちた。とっにビッツを抱きかかえる。

「痛いよ──痛いよ、エヴァン」

「わかった」軽い身体を運び、自分のベッドに寝かせる「どこが痛い?」

「背中──」

 ビッツがあえぐ。おれは慎重に少年をうつ伏せにする。おそるおそるびょうそうに触れ、なで始める。ファビオがこうして一晩中起きていたという話を聞いたことがある。効果はないが、そうするしかないと悲しそうに。そうだ。ファビオは? まだ薬を持っているはずだ。どうして飲ませない?

 ビッツにすぐ戻ると告げて部屋を出る。隣の、開けっ放しの緑のドアから中をのぞき込む。

「ファビオ?」

 ファビオが血まみれで床に転がっていた。おれは部屋から飛び出し、立ち尽くす。もう一度中へ戻ろうとして、ちゅうちょする。最善の選択肢は? ベッドに座りたい。できれば眠ってしまいたい。全て夢であって欲しい。

「ファビオが死んでる!」

 そう叫ぶまでにたっぷり一分はかかった。


  9 過剰な自意識


 一睡もしないまま朝を迎え、そのままセブンスヘブンへ行った。店の前にはキリエとレズリーが立っていた。キリエはおれから目をそらしている。昨夜、勝手にいなくなったことを怒っているのだろう。

「満席だとさ」レズリーが言った「この先にコーヒーを飲ませる店があるからそこへ行こう。店っていうか──単なる空き地なんだけど」

「いいよ」

「ファビオは?」

「今日は来ない。死にかけてる」

「えっ!?

 歩き始めていたふたりは、声を上げておれを振り返った。

「何があったの?」

「話すよ。でも、座りたい。寝てないんだ。早くその店へ行こう」


 レズリーが案内してくれたのはジョニーズヘブンだった。何度か前を通ったことがあるが、利用するのは初めてだった。空き地にテーブルを並べただけの店。まともな飲み物が出るとは思えない。今時珍しいリーゼントヘアの男、ジョニーが自己紹介し、おれたちの名前を訊いてきた。どういう店だ。質問には応えず、レズリーが三人分のコーヒーを注文した。そして沈黙。おれは何をどのように説明すればいいのか、考えていた。やがてジョニーがコーヒーをおれたちの前に並べ始める。

「察するところ──お客さんたち、めてる? 彼女を取り合ってお兄さんたちがバチバチと火花を散らしているって感じ? うん、あるよね、あるよね、そういうこと。でも、あと何年かしたら──」

「時間は何も解決してくれない」

 話をさえぎるとジョニーは口を曲げておれをにらんだ。

「どういう意味かな、お兄さん?」

「毎日次から次へと新しい問題が起こる。そのせいで古い問題は心の奥深くに埋まってしまう。確かになくなったように思える。でも、何かの拍子に顔を出すんだ。解決なんて、しない」

「──理屈っぽいね、お兄さん。まあ、それでもいいや。とにかくみんな若いんだ。明るくおしゃべりしながらコーヒー飲んで、元気に肩組んで生きようぜ!」

「ジョニーさん、ごめんね。わたしたち、大事な話があるんだ」

「おれのおもしろトークの出番はなし?」

 誰も答えなかった。世の中にこれほどどうでもいい質問があるだろうか。ジョニーは助けを求めるようにキリエ、そしておれを見た。

「無し」

 仕方なくおれが答え、ジョニーはやっとカウンターへ戻っていった。

「エヴァン、話して」

「──真夜中にビッツがうちに来たんだ。せいこんが痛いと言って倒れた。おれは、ファビオはどうしてるんだと思って様子を見に行った。あの薬がまだあると思ったからな。そしたら、ファビオが血まみれで倒れていた」

「無事なんでしょ?」

「うん。近所の連中を呼んだんだ。村長とか、その隣のチコ夫妻とかね。村長がファビオの様子を見て、大丈夫、生きていると言った。そして医者を呼びにいった。でも、それからが大変だった。おれはファビオをキーオにまかせて薬を探そうとした」

 話を切ってコーヒーをすする。苦く、口の中の傷にみた。あの時の行動は、とてもそのまま話せない。おれは、ビッツに薬を与えることを口実にその場から立ち去りたいと思っていた。死んでしまうかもしれないファビオの側にいるのが怖かった。

「薬はベッドの上にあったけど、それをチコが取ろうとしていた。おれは、ビッツのために、取り戻そうとした。でも抵抗されて、あとはもう殴り合い。チコはずっと力仕事をしてきたおっさんだから──」

 実際は、チコはなんの薬だろうと眺めていただけだった。おれは、たぶん、ファビオから逃げようとしたことが後ろめたかった。さっさと薬を持って出ていきたかった。何も言わずチコの手から薬を奪った。やり方がまずかった上に、チコは血の気の多いけんまんだ。なんだ若造と言いながら殴りかかってきた。おれは目を閉じてこぶしを振り回す。相打ちだ。が、倒れたのはおれの方。チコがおおかぶさってきて後は防戦一方。腕で防いだが、それでも何発か殴られた。すぐにキーオとチコの奥さんが止めに入り、奥さんがおれに謝って、終わった。キーオが、こんな時に、おまえそれでもファビオのダチか? と、おれを責めた。

「見てくれよ、これ」

 おれはれた頬を口の中から舌でふくらませてレズリーに見せた。

「あのな、エヴァン。大変だったとは思う。でも、おまえ、ファビオが死にかけてるって言ったよな? おれたちはファビオのことが知りたい。もちろんビッツも」

「今、話してる──」

「何が後ろめたいのか知らないけど、おまえが何発殴られたかなんてどうでもいい」

 レズリーはようしゃなかった。お見通し。黙るしかない。

「ファビオはどんな様子?」

 キリエが訊く。おれを自己嫌悪の底から救ってくれるのだろうか。いや、ただ、ファビオを心配しているだけ。当然だ。

「ドレイク先生が来て診てくれた。命に別状は無い。全身に打撲があって見た目は悲惨だけどな。骨も折れてないし、今朝はもう歩いていたよ。じいさんみたいにゆっくりだったけど。ビッツは薬を飲んだら落ち着いて朝まで眠っていた。起きてからも、痛みはないってさ。薬は切れてるはずだけど、せいこんの痛みはそういうものらしいから」

 チコと引き離されてから、今朝家を出るまで、おれはビッツの背中をなで続けた。ビッツのためではない。おれの自己満足。保身。罪滅ぼし。

「ファビオは死にかけていないんだな?」

「ああ」

「だったら、そんな言い方するなよ」

「認める。悪かった」

 少しの間、沈黙が続いた。

「それで、誰の仕業だ? 犯人は?」

 レズリーがいつもの調子で切り出す。

「ああ。ファビオの話だと、若い女タークスだってさ」

 おれもいつもの調子を装って応じた。

「なるほどな。ってことは、今度こそ本当に終わりだ。ファビオが言う、チャラってやつだ。最初におまえを殴ったタークスは人違いしたことがわかって、その女がけじめを付けに来た」

「たぶんね」

「女タークスなんて、怖そう」

「うん。でも──ビッツから聞いたんだけど、薬の飲み方を教えてくれたらしい。子供は四分の一でいいって」

「わからないな」キリエが首をかしげる。「ファビオを痛めつけてから、そんなこと言ったの?」

「タークスにとって暴力は仕事なんだ」レズリーが断定した。「ファビオが薬を盗んだ理由はわかった。ビッツの苦しみにも同情する。でも、犯した罪には相応の罰を与える。昨日おまえのところへ来たのが、その女じゃなくて良かったな」

 レズリーがニヤリと笑い、立ち上がった。

「どこへ行くの?」

「ファビオの見舞いだよ。キリエも来てくれ。仕事の話が聞きたい」

「うん、わかった。エヴァンも?」

「──もう少しここにいる」

 ドイル村には戻りたくなかった。チコやキーオと、まだ会いたくない。

「エヴァン、さっきは言い過ぎた。悪かったな」

「いや、適確な指摘だったよ」

 おれは微笑んで見せる。にっ。納得したらしくレズリーは歩き出す。

「オフィスで待ってて」声を潜めてキリエが言った。「わたし、昨日のこと、怒ってた。着替えている間に、帰っちゃったこと。でも、エヴァンの様子変だったなって思って。だから話がしたいんだけど、いい?」

 キリエは返事を待たずにレズリーの方へ駆け出した。ライダースジャケットに、彼女に一番似合うとおれが勝手に思っている、黒いミニスカートを合わせていた。この瞬間まで気づかなかったことに驚く。今日は本当に自分のことしか考えていない。いや、今日だけじゃないか。おれの場合、よくあることだ。二人を見送ってからしばらくの間、通りを眺めながら座っていた。ジョニーが何度か話しかけてきたが無視し続けた。

「そうくるか。じゃ、とっておきの話をしちゃおうかな。おれの心の師、ティファの話だ。セブンスヘブンのティファ。知ってるか? 彼女はド田舎の村、ニブルヘイムで生まれ、あの──」ジョニーは大げさな身振りで、巨大な鋼鉄の街を指さした。「ミッドガルへやってきた。ま、プレートの上じゃなくて下のスラムだけどな。七番街スラムだ。当時おれはあの一帯を仕切っていて、ちょっとした顔さ。田舎から出てきた彼女の世話を焼いたもんだ」

 ジョニーはティファの話と言いながら、自分の話を続けた。さっきのおれと同じだ。いたたまれない。もう行こう。

「なんだよ、行くのかよ」

「ごちそうさま」

「ま、しゃーねえーな。ひいきにしてくれよ。ジョニーは悩める若者の味方だ」

「悩んでないよ」

「悩みのない青年なんかいるかよ!」

 ジョニーはなれなれしくおれの肩をたたいた。

「でも、兄ちゃんは幸せ者だ。あのお姉ちゃんはあんたのこと、好きだね」

「あんたに何がわかる」

「おれのカンは当たるんだよ。自分のこと以外ならな」

 最高のオチだとでもいうようにジョニーはゲラゲラ笑った。


 空を見上げると日差しが目に染みた。目を閉じると、再び開くのが苦痛だった。昨日の朝からずっと起き続けている。事件が重なり心身ともにダメージが大きい。寝よう。休養と区切りが必要だ。


  10 絶てない縁


 目覚めた時、一瞬、どこにいるのかわからなかった。天井に描かれた絵が目に入る。海と空、砂浜の下手な絵。しかも描きかけ。青い塗料がなくなったのだろう。それとも腕が疲れてそれっきり。窓には真っ黒なカーテン。ベッドの上に投げ出された自分の足を見ると、ブーツを色とりどりの衣類がおおっている。積んであったのが崩れてきたらしい。左側は白い壁。コスタ・デル・ソルのポスターが貼ってある。右を見る。本来なら、おれとファビオで作った壁一面の棚があるはずだが、全ての空間に服が詰め込まれていて、はみ出し、垂れ下がり、棚の存在を隠している。服を積み上げて作った壁のようだ。持ち主はどこに何があるかあくしていないだろう。身体を起こすと、床に置かれたとうカゴが目に入った。その中にも服が放り込まれている。オレンジ色のはショートパンツだったはず。黄色のは七分袖のシャツだ。真っ白なブラウスは飛び回る鳥のしゅうが入っている。黒のジーンズ、薄いグレーのはワンピースだろう。見覚えのあるものばかりだ。

「これどう?」

「うん、似合うと思うよ」

 マーケットで何度か交わされた会話を思い出しながら、改めて部屋の中を見回す。ミレイユ探偵社の奥の間。キリエの生活空間。通称ゴミ部屋。整理整頓を愛するおれには考えられないこんとん

 オフィスのドアが開く音がして、おれは慌ててベッドから下りる。せわしない足音。そして静かに開く、この部屋のドア。キリエが顔を覗かせる。

「やあ」

「大丈夫?」

「うん」

「良かった」

 しかし、表情で、言葉ほどには安心していないことがわかる。

「ここまで運んでくれたんだろ? ありがとう」

 おれはオフィスまで来たものの、合鍵を忘れていたことに気づいた。途方に暮れ、ドアの前に座り込んで、そのまま寝てしまったはずだ。

「何があったの? びっくりしたじゃない」

「二日くらい寝てなかったからな。いろいろあったし──」

「寝ているっていうより、意識がないみたいだった。揺らしても叩いても起きないし」

「ごめん」

「本当にもういい? 大丈夫なんだよね?」

「うん。新品の電球並み」

 キリエはクスリともせずにうなずくと、衣類の壁から迷うことなくサテンのフレアスカートを引っ張り出した。それを腰に当ててからベッドに放ると、次に、別のいっかくから黒の、ヒラヒラした飾りがたくさん付いた短いスカートを引き出す。一瞬見ると、またベッドへ放り投げる。彼女はに何があるか把握しているようだった。驚くべき能力。最後にカゴに放り込んであった黒いジーンズを引っ張り出す。

「これかな。状況を考えると」そしてもう一度壁を見回し、崩れないように注意しながら小さな青い花がプリントされたノースリーブのブラウスを取り出す。「これじゃ寒いのかな」

「状況って? 寒い? どこへ行くんだ?」

「着替えたら説明するから、出て。でも、絶対にオフィスのドアを開けちゃダメ。いい?」

 キリエのな顔におれは不安になる。

「何か、マズイこと?」

「たぶん」

 口を開こうとすると、キリエはおれをにらみながら穿いているスカートに手をかける。慌てて部屋を出る。ソファの上におれのショルダーバッグがあった。それを首にかけて座り、キリエを待った。

「説明するね」着替えて出てくるなりキリエは話し始めた。「ここに戻って来たらあなたが倒れていたの。呼んでも揺すっても起きない。どんだけ怖かったかわかる? それで、引きずってオフィスの中に運び込んだけど、倒れている人をやみに動かしちゃいけないって聞いたことがあって、それを思い出した」

おおだな」

「それくらい様子が変だったってこと。そして、お医者さんを呼ばなくちゃと思って、ほら、ドレイク先生」

 ドレイク先生の診療所はスラムからだとかなり遠い。どちらかというとドイル村の近くだ。

「前にファビオが信用できるって言ってたから。スラムの医者は本物かどうかわからない人が多いから、そんな人にエヴァンを任せるわけにはいかないでしょ。だからわたし、走った」

 グッとくる話ではある。が、先がまったく見えない。

「広場まで走ったら、タークスがいたわけ」

 キリエがおれを見る。

「赤毛とスキンヘッド?」

 うん、とキリエがうなずく。

「この人たちなら電話を持ってるはずだと思って、ドレイク先生に連絡してくれるように頼んだ。エヴァンが大変だ、あなたたちが殴ったせいだって。そしたらあの人たち、なんて言ったと思う? エヴァンなんて知らないって。もうわたし、腹が立って、あんたたちがファビオと間違って殴ったのがエヴァンだって言ったの。責任取れって」

「すごいな」

「で、赤毛の方、レノって言うんだけど、あの人が電話をして、お医者を呼び出してくれたの。ドレイク先生じゃなかったけど、いい医者だってレノが言うから──そしてみんなでここへ来た」

「タークスも一緒ってこと?」

「うん。あのね、エヴァン。タークスはここのこと知ってた。わたしが探偵社をやってることも。どうしてだろう──」

「ファビオの一件で調べたとか」

「でも、エヴァンとファビオが探偵仲間だと知って驚いてた」

「いやな感じだな」

「でしょ? 怖いよ」

「それで、その後はどうなった?」

「お医者さんがあなたを見て、熟睡してるだけだから、好きなだけ寝かせておけって言って帰ったの。こんな奴に薬を出すのはもったいないって」

「お恥ずかしい。でも、もう大丈夫。タークスがここのことを知っていたのはなぞだから、それははっきりさせた方がいいと思うけど。気持ち悪いからな」

「まだ終わりじゃないんだ」

 キリエは静かに首を横にふった。そしてドアのところへ行き、細く開いて外の様子を見た。

「ほら、あそこ」

 手招きされてドアに近づくと彼女はしゃがむ。空いた場所に右目をつけておれも外を見る。夜も深い時間。家々かられるろうそくの光だけではほとんど何も見えない。しかし、目をらすと、三十メートルほど離れた場所に、闇に浮かぶスキンヘッドが見えた。い締めにされた時の馬鹿力を思い出す。その記憶と連動したように、レノやチコに殴られたところがる。

「あれがルード。車まで案内してくれるの」

 下からキリエが言った。車って?

「言ったでしょ? あいつらの車でドライブに行く。真夜中までには着いて、朝までには帰ってこられるって」

 絶対に聞いていない。が、そこを論点にすべきではない。

「どうしてそういうことになったのかな」

 悪夢のような展開だが、おれはなるべく平静を装う。

「誘われた」

「で、OKした」

「うん」

「キリエ」おれはドアから離れて呼んだ。キリエはまだルードの様子を見ていたが、ドアを閉じ、しぶしぶという様子で立ち上がった。しかし、おれを見ようとしない。

「どうして?」

「怖かった」

 消えそうな声だった。

「怖かったの!」

 突然キリエが大声を出した。

「最初はエヴァンを助けようと夢中だった。でも、あなたが無事だって聞いて、冷静になったら、なんてバカなことをしたんだろうって思った。どんなに困っていても頼っちゃいけない連中に、わたしは頼った。笑うとチャーミングだったり、親切そうだったりするけど、普通の人じゃない。ずっと戦ってきた目。人を殺した手。そう思ったらもう──」

「キリエ──」

「あの二人、そのソファにどっかり座って、わたしを誘ったんだ。行くって言わないと帰ってくれない気がした。だから、エヴァンが一緒なら行くって答えた。そしたら、あいつら、最初からそのつもりだって」

 おれは、表情がピクリとも動かないように努めた。

「そうだよな、あいつら、怖いよな」

「うん」

「ちょっと待ってくれ。対策を考える」

「ほんと?」

 キリエは滅多に見せない、すがるような目をした。おれは、今から、試されるのだ。

「まかせてくれ」

 タークスはおれたちをいったいどこへ連れ出そうとしているのだろうか。これは考えても無駄だ。情報がまるでない。が、どこへ行こうと、おれたちが消されるようなことはない。そんな気がした。何しろあいつらは「愛されるしん」を目指しているのだ。無茶はしない。本当か? 考えてみよう。たぶん、最も危険なのはファビオを痛めつけた若い女。次は外で待っているスキンヘッドのルード。赤毛のレノはおそらく、おれたちに近い。不良がそのまま大人になったみたいだという第一印象を思い出す。不良と呼ばれる連中は、一般的に仲間意識が強いはずだ。そこにおれたちの突破口がある。きっと、ある。

「レノも行くのかな」

「うん。四人で行くって」

 よし。レノに賭けてみよう。キリエと二人、レノに気に入られるように振る舞えば、そうひどいことにはならない。ここで逃げてしまえば、それはもう不可能。おれは覚悟を決めた。

「わたしたちをエッジから連れ出して殺すつもりかも」

 さっそく覚悟が揺れる。

「いや、おれたちを殺す理由なんて無いはずだ──」

「あいつら、わたしのこと知ってたでしょ? それと同じ。向こうが何を考えてるかなんて、わたしたちにはわからない」

「でも──」

「怖いよ、エヴァン」

 キリエの手がおれの手に重なる。

「うん。逃げよう。とにかく逃げよう」

 言ったおれが驚いた。どの口がそんなことを。

「エヴァン──」キリエも驚いておれを見ていた。そして、一瞬ドアを見てから、うん、そうしようと言い、勢いよく立ち上がる。こくたんのテーブルの上からバックパックを取る。ダークイエローの分厚い布でできた軍用品。キリエのきゃしゃな背中には似合わないが荷物が多い時は愛用している。つまり、準備はしてあったわけだ。タークスとの旅? それとも逃亡?

「エヴァン、これを使おうよ」

 バックパックから出した、丸い物体をおれに放った。反射的に手を出して受け取る。半透明の、少し弾力のある玉だ。淡いグリーン。ファビオが欲しがりそうな色。

「アールドさんからもらったマテリア。ソルジャーひっけい

 ソルジャー必携かもしれないが、おれは使い方すら知らない。

「あいつら、驚くよね」

 キリエは黄色いマテリアを握りしめていた。いざという時は女の子の方が強い。おれはその言葉を実感した。それに、おそらく、キリエは魔法が使えるのだ。おれを操る魔法。

 ノックの音がした。ゆっくりとしたテンポのだるそうなノックだ。

「すぐ行くから待ってて」

 キリエは外に向って声をかけると、オフィスのドアから一番離れた一角へ行き、手招きした。おれはふらふらと彼女に従う。

「エヴァンがドアを開く。わたしが飛び出す。ルードは驚く。避ける。わたしはそのまま走る。ルードはわたしを追う。その隙にエヴァンが逃げる。わたしはスラムに詳しい。路地を使って逃げる」

 キリエの目がいきいきと輝く。きっと、おれの目はよどんでいるだろう。

「いや、役割を取り替えよう」

 この提案をしない男がいるだろうか。しかし、おれはスラムの地理に疎い。きっと否定されるだろう。それでも言わないわけにはいかない。

「わかった」

「え?」

「エヴァン、迷っても気にしないで無茶苦茶に走って。きっと逃げ切れる」

「いつまで待たせる気だ」

 ルードの低い声。キリエはドアに近づき、ノブに手をかけた。待った無し。逃げ場なし。そして、ささやくように──

「エヴァンとわたしはエッジの南の端で再会。感動のハグ&キス。いい?」

 最高の微笑みとともにノブを回し、ドアを開く。数歩先で背中を見せているルードがゆっくりと振り返ろうとしている。ハグ&キスの前に立ちはだかる大きな壁。

「エヴァン、素敵」

 おれは頭を下げて戦いの荒野に飛び出した。


  11 落第


 十代最後の歳。生まれて初めて試みたタックルはあっさりかわされた。勢い余って前のめりに倒れる。地面を転がる。自分の体勢がわからない。やっと止まる。ルードを探す。おれを見おろしている。黒い手袋をはめた手で頬をポリポリといていた。ゆっくり歩いてくる。背後のドアからキリエが顔を覗かせて様子をうかがっている。おれは、逃げろと目で訴える。彼女は首を横に振ると、勢いよくオフィスから飛び出す。手には三脚椅子。椅子を頭上に掲げてルードに駆け寄る。ルードの後頭部に椅子が直撃。鈍い音。やった。しかし、何も起こらない。スキンヘッドは動じない。

「エヴァン! あれを使って!」

 あれ? そうだった。ジャケットのポケットに手を突っ込むとマテリアがあった。マテリアを握りしめる。力が湧いてくる。そんな気がした。

「何のまねだ」

「キリエは渡さない」

「いらん」

 ルードがおれに近づいてくる。その時、キリエが動いた。背後から飛びついて、右の前腕をルードの首に回す。両足で脇腹を挟んでいる。ルードのけんたてじわ。いいぞ。効いてる。キリエ、すごい。あとはまかせろ。おれは勢いよく飛び起きて、マテリアをつかみ直し、敵に突きつけた。

「これを見ろ、タークス!」

「ほう」

 ルードがおれの声に反応した。驚いたか。

「ぐ」

 ルードが呻く。キリエの腕がのどを締めている。チャンス。おれはマテリアを握ったままの右手を引くと、そのまま相手の鼻を狙ってパンチ。ルード、ステップバック。かわされた。行き場を失った拳。その力がおれをふらつかせる。半回転。失態。敵に背中を見せてしまった。

「痛い!」

 キリエの悲痛な声。慌てて向き直るとキリエは地面に倒れていた。お尻を押さえてのたうち回る。キリエが刺された!?

「キリエ!」

 ルードの横をすり抜け、キリエに駆け寄る。しかし、右手首を掴まれた。激痛。マテリアが地面に落ちる。

「離せ!」

 逃れようと暴れると手首がきしんだ。

「動くと折れるぞ」

 ルードは左手でおれの自由を奪ったまま右手でマテリアを拾い、ズボンのポケットに押し込む。そしてキリエのところへ。おれは手首を捨てる覚悟で体重を後ろへかける。

「キリエ、頑張れ! 逃げろ!」

「う──」

 キリエは刺された箇所を押さえて立ち上がった。

おおな女だな」

 キリエはルードをにらみ付ける。

「キリエ、いいから! 行くんだ!」

 しかしキリエは動かない。右手を後ろに回している。もしかして、秘策があるのか? 援護しようと、さらに体重を後ろにかける。

「やーっ!」

 キリエが奇声をあげながら右手を突き出す。手には黄色いマテリアが握られていた。

「笑わせるな」

 ルードはそう呟くと、キリエの手首を無造作に掴んでひねり上げ、高く掲げた。マテリアがポトリと残念な音をたてて地面に落ちる。キリエの顔が歪み、同時におれの手が強く引かれた。

「拾え」

「いやだ──」

 さらに強く手首を捻られる。

「同じことを女にもするぞ」

 圧倒的な暴力に屈するのが悔しかった。しかし、脅迫されたことで少し気が楽になったことは否定しない。情けないが否定するまい。覚えておこう。惨めなおれは、身をかがめてマテリアを拾った。

「持ってろ」

 おれが持っていても無害ということか。マテリアは勝手に敵を倒してくれるわけではない。これも覚えておこう。

「行くぞ」

 ルードはおれたちをこうそくしたまま歩き出す。あちこちの窓に映る人影に気がつく。観客は大勢いたらしい。おれの情けない姿が、このあたりの住民の記憶に残るのだ。

「もうやめろ」

 ルードが言った。見ると、キリエがルードの手にツメを立てている。なんという闘志。そしておれは真っ先にすべきだったことを思い出す。

「ルード、キリエの傷の治療を」

「怪我か?」

「あちこち痛い」

 キリエが抗議する。

「お尻は? 刺されたんだろ?」

「誰が刺したんだ?」

 ルードが間の抜けた声で言った。

「あんただろ!」

「いや、おれは──」

「この人、わたしのお尻をつかんだ。わしづかみ。最低!」

 ホッとした。刺されたわけじゃなかった。

「身を守るためだ」

 ルードは全く動じていない。

「お尻掴んだ! 偶然じゃない。ねらって掴んだ。やらしっ! みなさーん!」

「静かにしてくれ」

「世間様に知られたくなかったら手を離してよ」

 キリエはここぞとばかりに畳みかけるようにしゃべっているが、ルードの様子を見る限り有効な攻撃ではないようだ。

「誰に何を知られても構わないが──」ルードが苦々しげに言った。「代償は手首の骨だ。兄ちゃんか? それとも姉ちゃん、あんたのか?」

「やれるものならやってみなさい」

 キリエ。こいつは本当にやるぞ? おれはまだ何か言いそうなキリエを目で制した。

「ルード、もうキリエは騒がないし、おれも大人しくする。だから手を離してくれ」

 意外にも、ルードはおれたちの手を離した。

「おれは銃を持っている。殺す気はないが、必要だと思えば足を撃つくらいのことはする」

 ああ──おれはルードに返事をしてからキリエを見た。不満そうだった。なあ、本当に、もうやめよう。おれたちはタークスの恐ろしさを知っている。キリエだって、怖いから断れなかったと言っていた。それなのに、どうして──

「エアリスも、こうやって連れて行った?」

 エアリス。初めて聞く名前だ。

「──知り合いか?」

「まあね」

 少しの間、沈黙が続いた。やがてそれを引き裂くようなクラクションが夜のスラムに響いた。

「付いてこい」

 ルードがエッジの方角へ歩き出し、キリエが続いた。おれは少し遅れて二人のあとを歩く。逃げ出すなら、今がそのチャンスなのだろう。しかし、キリエからは闘志が消えていた。ほんの数分前、オフィスでおれたちを支配したこうようかんもどこかへ行ってしまった。ハグ&キスは一瞬の夢。もう消えてしまったのだ。


  12 未知の世界


 待っていたのはのうこんのピックアップ・トラック。かなり古いはずだが、手入れは行き届いているようで、ボディの色もほとんどせてはいない。運転席に赤毛のレノ、中央にバックパックを抱えたキリエ、助手席にルードが座った。おれは三人が座るベンチシートの後ろにある狭いスペースに押し込まれた。助手席側の窓を背もたれ代わりに、運転席側に足を伸ばして居場所を確保した。目の前にルードの後頭部があった。キリエが椅子で殴ったところがコブになっている。それがおかしく、少し気が楽になる。

「遅かったじゃねえか」

 レノが車をスタートさせながら言った。車体がギシギシと鳴った。

「ちょっとめた」

 ルードが応える。

「なんにもしねえよ。ただのドライブ。それだけだ」

 レノは少し寂しそうに言った。

「じゃあ、どこ行くのか教えて」

 トラックは騒音をき散らしながら夜の大通りを走った。

「そういや言ってなかったな。これからヒーリンってところへ行く。ほら、ダチのファビオが盗みに入ったところ」

 キリエがレノを見た。

「んな顔するなよ。かわいい顔が台無しだぜ」

「まだ何かする気? もう十分じゃない?」

「しねえよ。ファビオとスロップがケツかされて、それで終わった」

「下品」

 キリエが吐き捨てる。

「そういえば兄ちゃん」

 レノがルームミラー越しにおれを見る。

「あん時は悪かったな。おれたち、てっきりおまえがファビオだと思ってよ」

 もういい。あの時のことは思い出したくもない。

「でもよ、ダチの名前だけは言わないってのは気に入ったぜ。すげえビビりのくせに」

 最後が余計だ。

「ねえ、ファビオをあんな目に遭わせたのもタークス?」

「ああ。ちょっとした行き違いだ。イリーナはな──」

 レノが言葉を切る。ほどなくトラックが大きくバウンドする。何事かと外を見ると風景が変わっていた。次第に数が減っていた家々の灯りが完全に無くなっていた。荒野に出たのだ。ヘッドライトが無ければ暗闇の世界。モンスターもいるにちがいない。おれは姿勢を正した。

「タークスの中には、うまく変われない奴もいる」

「タークスって、何人いるの?」

「それは神羅カンパニー最大の秘密だ。言えねえ」

「三人なんだ」

「言えねえ」

「図星」

「そういうことにしといてやるぞ、と」そしてレノは身体を捻っておれを見た。「で、エヴァン。おふくろさんの名前は?」

 トラックの進路が変わったのがわかった。早く前を向かせたくておれは正直に応える。

「アネット・タウンゼント」

 キリエが一瞬、おれを見ようとして止めた。彼女の前で母の名を口にしたのは初めてだった。仲間には、両親は死んだと告げていた。それだけではない。母のことは、息子を捨てた最低の女だったと、悪し様に言っていた。そういう物言いが、スラムで生きる男にはふさわしいと思っていた。

「なあ、前を見てくれないか? ずいぶん曲がったと思う」

「おお」レノは前方に向き直り、「ま、道なんかねえし。ちょっとくらいずれても問題無い」と言いながら、大きくハンドルを戻す。

「おい、ルード、起きろ」

 ルードがピクリと身じろぎした。

「起きている」

「アネット・タウンゼント。たぶん間違いないと思うけど、もう一回確認してくれ」

 母の話題はまだ終わりではないようだ。

「ああ」

 ルードは携帯電話を取り出し、どこかへかけ始めた。すぐに相手が出たらしい。

「おれです。例の件で──」ルードは改まった口調で話し始め、やがて母の名を告げると通話を終えた。

「なんのつもりだ?」

 そう訊いてから、気づく。もしかしたら、タークスは母の消息を知っているのかもしれない。期待と不安が入り交じり、おれは落ち着きを失う。

「悪い話じゃねえよ。あと二時間くらいだから眠かったら寝てろ。ルード以外」

 こんな状況で眠れる奴などいない。ルード以外。


「このドライブの目的は、エヴァンをヒーリンへ連れて行くこと?」

 しばらく続いた沈黙を破ったのはキリエだった。

「そうだな」

 レノが答えた。

「お母さんのことで?」

「無関係じゃねえな」

 キリエはモゾモゾと動いてシートの上で身体を回転させると完全に後ろを向いておれを見た。顔が間近にあった。

「エヴァン、ごめんね。わたし、自分がしんに連れて行かれるんだと思ってた」

「こっちこそ巻き込んじゃったな」

 自覚はなかった。しかし、結局、そういうことになる。

「そうでもないぞ、と」

 レノが口を挟む。

「姉ちゃん、前を向けよ。話がある」

「待って」

 キリエはおれに右手を差し出した。

「エヴァン、わたしの手を握って。両手で」

「おいおい! そういうのはふたりきりの時にやれよ! 車めるか?」

 おれは言われるままに両手でキリエの右手を包み込んだ。握られていたキリエの手が開かれて、何かがおれの手の中に落ちた。

「ありがとう。落ち着いた」

 キリエは小さく、素早くうなずいて前を向く。おれはタークスたちに気づかれないようにキリエに渡されたモノを見た。手のひらに収まる、子供用の折りたたみ式ナイフだった。タークスの目的が自分ではないと知り、隠し持っていた武器を譲ったということだろうか。

「話って、なに?」

 キリエが挑むように言った。

「ライフストリームを読むなんて、インチキはやめとけ」

 レノが警告する。

「ほっといて」

「そうはいかねえ」レノはミラー越しにおれを見て「エヴァンのお友達と知った後じゃ、ほっとけねえよ」──と「お友達」を強調して言った。レノとタークスにとって、キリエは、おれの「お友達」扱い。保護されるべき存在。ほっとした。同時に、心細くなる。突き放されたような気がした。おれの立場だけがはっきりしない。帽子を深く被り直し、顔を隠した。キリエの安全を素直に喜べない小さなうつわ。顔に出ているはずだ。

「ライフストリームを読むなんて言ったら、知ってる奴はだいしゅだと考える。だろ? 実際、ちょっと前に、古代種を名乗る女がいるって報告があってよ。姉ちゃんのこと調べたんだ。ま、どうせインチキだし、どうにでもなれと思ったからほっといたけどな」

 古代種──何の話だ?

しんには科学部門ってのがあった。メンバーの中には研究バカや野心のかたまりみたいなのもいてよ、古代種ってのは、奴らにしてみればなまつばもんの研究対象だ」

「わたしは古代種じゃないもの。関係ない」

「でな、居場所がわかんねえ奴もいるのよ。いくらあんたが、わたしは違うの、偽者なのって言ったって、奴らは調べるだろうよ。どんなことされるかわかったもんじゃねえ。偽者だってわかる頃には姉ちゃん、ぼろぼろにされるぞ」

「──エアリスみたいに?」

「──」

「エアリスはどうなったの?」

「──死んだ」

 レノが応え、誰も何も言わなくなった。エンジン音とタイヤが地面を蹴る音が車内を満たしていた。古代種。死んだエアリス。エアリスはキリエの友達か何かで、そして古代種。古代種は本当にライフストリームを読むことができた。

「え?」

 思わず声が出た。レノとキリエがおれを見る。

「ライフストリームには死者の記憶、知識、思い、そんなのが溶けている。それは本当なのか?」

「おれたちには確かめようがない。どっちでも同じだ」

 レノが抑揚の無い声で言った。

「ライフストリームは星を巡る生命の源。星の命そのもの」

 キリエが呟いた。どこかで聞いたことがある。そうだ。こう爆発事件。七番街落下事件。ミッドガルを恐怖に陥れたテロリストたちの主張だ。こうは星の命。このまま使い続ければ星は死ぬ。あれは本当だったのだろうか。

「知識とか情報とか、わからないけど。でも、意志はある。あの日、そんな気がしなかった?」

 二年前のこう、いや、ライフストリームが吹き荒れた日。おれは何も知らず、震えていた。

「わたしはそう思った。星の危機を、ライフストリームが救った。死んでいった人たちの意志がメテオを消し去った」

 おれはぶかに被っていた帽子を上げ、外を見た。闇に包まれた荒野、そして車内を満たす空気がそれまでより濃密に感じられた。

「エアリスは友達か?」

 レノが聞いた。

「どうかな」キリエが応える。「スラムに崩れかけた教会があって、わたしはよく、仲の良かったふたりと一緒に遊んでいたの。結婚式ごっことか、そんなことをして。エアリスはいつも教会にいたけど、ひとりで花の世話をしていた。そりゃあ、たまには話しもしたけどね。ある日、エアリスがわたしに、急いで家に帰るように言ったの。意地悪されているんだと思った。あの子が大事にしていた花を踏んだから」

「ああ、花な。花にはうるさかったよな」

「嫌な気分になって家に帰ったら、両親の遺体が家に運ばれてきたところだった」

「そりゃまた──」

「お婆ちゃんから聞いたことがあったんだ。ライフストリームと古代種のこと。ずっと、おとぎ話だと思っていたけど、そのことがあって──エアリスは古代種なんだと思った」

「いつの話だ、それ」

「十歳。エアリスは少し年上だったと思う。ねえ、その後、エアリスに会った時、わたしなんて言ったと思う?」

「さあな」

「気持ち悪いって言ったの」

 キリエはシートに脚を引き揚げて、ひざを抱え、顔を埋めてしまった。

「っとぉ」

「それからわたしは教会へ行かなくなった。行ったのは何年も経って──七番街が落ちて少ししてから。死んだ人たちのために、花をもらおうと思った。その時に、エアリスはタークスに連れていかれたって聞いた」

「なあ、姉ちゃん。別の話、しようぜ?」

「エヴァン、聞いてる?」

「うん」

「一年前。お客さんが全然いなくなった時。もう解散しようってレズリーが言いだして、わたし、嫌だったから、なんとかしようと思ってライフストリームの話を持ち出したの。そしたら成功しちゃって──」

「そうだな」

「夜、ひとりになると、エアリスに言ったことを思い出す。今でも」

「うん」

「ねえ、エヴァン。もう、やめ時かも」

「うん、いいよ。レズリーたちも反対はしないと思う」

「解散かあ」

「何人いるんだ? みんなで広場に来いよ。れい作ろうぜ、慰霊碑」

「でも、エヴァン。アールドさんの仕事だけ、ちゃんとやろう?」

「無視かよ、っと」

「あ、そうだ」

 キリエが何か思い出したらしく、バックパックの中を探っている。そして──

「この写真見て。前列の右端」

「あん? さっそく仕事かあ?」

 レノは突き出された写真をぎょうする。視線が完全に進行方向から外れていた。

「グールド・アールド。ソルジャーだって」

「ソルジャーっても、この服はセカンドだろ? セカンドはわかんねえな──お? ルード、ちょっとこの写真、見てみ?」

 キリエは助手席のルードの前に写真を突き出す。反応はない。眠っているらしい。キリエが肩を叩くとルードは身じろぎし、短い沈黙の後に言った。

「これは──ニブルヘイムだ」

「ニブルヘイム──」

 キリエが繰り返し、肩越しに写真をおれに見せる。おれは受け取り、改めて、写真を見る。

「ニブルヘイム?」

 おれも口に出してみる。

「ああ」レノが同意する「それ、いつの写真だ?」

「七番街が落ちた後から、メテオが消えた夜までのあいだ」

 なんの決意も覚悟もなく、おれは呟いた。

「そうだった? アールドさん、言ってたかな?」

「──うん」

 アールド氏は何も言ってはいなかった。


  13 アネット・タウンゼント


 アネット・タウンゼント。ルーファウスしんがその名を聞くのは初めてだった。その息子をレノが連れて来るという。しかも、間もなく到着するらしい。

「記録によると、確かに二十年前、秘書課に在籍していました。退職理由は自己都合としかわかりません」

 ツォンが神妙な面持ちで報告した。

「また秘書課か」

「はい。退職一時金が規定の十倍ほど支払われていますね」

「それも他の例と同じか」

「いいえ、他はせいぜい倍額程度です」

「特別だったようだな、その女は」

 ルーファウスは亡き父親のことを思った。あの男の愛情表現は常に金か物。つまり、アネット・タウンゼントは他の女よりも愛情を受けていたと考えられる。アネットはその見返りに、父に何を与えたのだろう。考えるまでもない。おれの代わりだ。

「ああ、しかし、彼女は金の受け取りを拒否していますね」

 ツォンの報告を聞き、ルーファウスは苦笑いをする。おやじも嫌われたものだ。

「息子は十九歳だったな」

「エヴァン・タウンゼント。レノの話によると、スラムを拠点に仲間と探偵業を営んでいるとのことです。ただの探偵ではなく、ライフストリームを読んで対象を見つけ出すという娘──もちろん、しょうですが──と組んで、そこそこうまくやっているようです」

 ツォンの眉がピクリと動いた。

「何がおかしい」

「商才がありますね」

ではないか」

「確かに、リスキーではあります」

「ふん。兄弟そろって古代種頼みとはな」

「そろそろ到着する頃です」

 ツォンが話題を変える。古代種を巡る一連の出来事は関係者にとって楽しい思い出とはいえない。

「会ってどうする」

「さあ──少なくともレノの気は済むでしょう」

「──ならば、会っておくか」


  14 おれの世界はまた姿を変える


 レノが車を止めた。外を見ると、進行方向に岩山と思われる影が見えた。

「到着だぞ、と。ここで降りる。もう夜中だ。眠っている患者も多いから静かにな」

 夜の静寂を守るためにここから歩くという意味らしい。おれはトラックを降りて大きく伸びをした。身体のあちこちがこわばっていた。

「ちょっと寒いね」

 キリエも同じように伸びをしながら言った。き出しの腕が、確かに寒そうだった。おれはジャケットを脱いでキリエに差し出す。

「ありがとう。でも、いい」

「気にするなよ」

「そのジャケット、エヴァンのよろいでしょ? 着てて」

 キリエはお見通しだ。おれはうなずき、ジャケットをり直した。

「行くぞ」

 レノが歩き出し、おれとキリエが続いた。ルードがさりげなく最後尾になるように移動する。十歩も行かないうちにおくびが出た。その後、三歩進むごとに。気づかれないように口の中で抑えこむ。キリエがおれの左側に回り込み、腕にしがみついた。

「やっぱり、怖いよね」

 げふ。キリエが小さく笑った。おれたちは保養所の前庭のような場所を歩いていた。地面は芝生でおおわれている。新鮮な感触だった。

「あそこへ行くぞ、と」

 レノが指さした先には一際高い岩棚があり、上にはロッジが建っていた。下からは木製の階段を上って行けるらしい。

「両手を挙げろ」

 レノが立ち止まって言った。

「どうして?」

「セキュリティ・チェック」

 そしてレノは、おれがまだ手を挙げないうちから、身体を軽く叩いて調べ始めた。そしてズボンのポケットから折りたたみ式のナイフを見つけ出した。車内でキリエから受け取ったものだった。レノはナイフとおれを見比べると──

「信頼のあかしだぞ、と」

 そう言いながらナイフをポケットへ戻した。

「そっちはどうだ?」

 両手を挙げたキリエの前でルードが腕を組んで立っている。

「どうぞ」

 キリエが一歩踏み出す。

「いや、いい」

「凄い武器を隠してるかもー?」

 キリエはいつもの彼女に戻っていた。いや。おれの緊張を知り、明るく振る舞っているのか。

「そうだな。姉ちゃんならやりかねない。ここで待ってろ」

 レノが言い、おれは静かに傷つく。用心すべきはおれではなくキリエ。

「んじゃ、ちょっくら、行くか」

 レノが階段を上り始めた。

「痛!」

 振り返ると、ルードに腕をつかまれたキリエが身をよじって抵抗していた。おれに続こうとしたのだろう。

「キリエ、大丈夫だ。レノもルードも友達だ」

「うれしいねえ」

 本当にそうだったら、どんなにいいだろう。


「なあ、エヴァン」もうすぐ階段を上りきるという時にレノが言った。「お袋さんの、なんだ──ええと、遺体は確認したのか?」

「いや」

「だったら、死んだなんて言うなよ。てか、生きてるって、信じろ」

「二年だ。生きてたら、何か言ってくるよ」

「理屈じゃねえよ、エヴァン」

 おれは、車の中で少しだけ考えたことを思い出す。タークスたちは、こっそり母を見つけ出していて、おれと再会させるつもりではないか。しかし、どうやら、それは違うらしい。らくたんあん。そして不安。レノの目的はなんだ? ロッジには何がある? 誰がいる?

「一応、帽子脱いどけ。ま、気にするような人じゃないけどな」


*  *


「おれだ。連れてきたぞ、と」

 レノの声がした。

「早かったな」

 ツォンがドアを開きながら言った。

「そりゃもう。感動のご対面だからな」

 ルーファウスは苦笑する。異母兄弟と会うのは初めてではない。感動も、喜びもそこにはなかった。敵意、怯え、期待。相手の目に浮かぶのは、そのいずれか。

「社長、調子よさそうじゃねえか」

「ああ。しかし、そろそろ就寝時間だ。ここの夜は早い」

「はいはい。で、エヴァンのことは大体聞いてるんだろ? まあ、余計なお世話だって言われればそれまでだけどよ」

「では、それまでだ」

「社長!」

 ツォンが外に向かって声をかけると、若い男が部屋に入って来た。面倒だと思っていたが、本人を目の前にすると、ルーファウスは、相手を観察せずにはいられなかった。脱いだ帽子を両手で強く握りしめている。緊張しているのだろう。髪の色は同じだ。目は──目は父親譲りだ。そして眉も。りんかくは、自分は母親似なのに対してエヴァンは父親に似たようだ。総じて、我々は似ている。母親は違うが、父親の、女の好みに一貫性があったとすれば、それも必然だろうとルーファウスは納得した。

「社長、エヴァン・タウンゼントだ」レノが得意気に告げると、大きく表情を崩して「社長だぞ、エヴァン」とルーファウスを紹介した。エヴァンの目が大きく開く。何も知らされていなかったらしい。たまには部下の密かな企みに乗ってやろうとルーファウスは決めた。

「社長って──ルーファウスしん?」

 エヴァンがレノに聞いた。

「ああ。バカ社長でいいぞ」

 ルーファウスは質問を引き取り、応えた。

「生きてる──」

 またレノに聞いた。

「死んだのは替え玉だ。おまえもその候補だが──見たところ、合格だな」

 ルーファウスが応えると、エヴァンは口を半開きにして、レノ、ルーファウス、ツォンの順に見た。ツォンはうつむいて笑いを噛み殺していた。


*  *


 ルーファウス神羅の替え玉候補?

「冗談だぞ、と」

 レノが声に笑いをにじませながら言った。しかし、どこからが冗談なのかわからない。

「目と眉。背格好。初めて見た時は驚いた」

「──似ているから、おれはここへ連れて来られたのか?」

「ま、それだけでも面白いけど、もしかしたらと思ってな」

「エヴァン。君は社長の弟だ。異母兄弟というやつだな」

 おれを迎え入れた長髪の男が言った。この男もタークスなのだろう。いや、この男こそが、と言うべきかもしれない。レノが隠そうとしない、ルードが時折見せる人間くささがまったく感じられなかった。当然、冗談を言うタイプにも見えない。とすれば、いま、この男が言ったことは事実? おれはルーファウス神羅の弟で、つまり、神羅カンパニー設立者の息子。しかし──

「でも、父は──」


*  *


 ルーファウスは続きを待ちながら考えた。さて、このエヴァンはどうするだろうか。本来なら受け取れるはずだった分け前を要求するのか。それとも、これまでの苦労話でも始めるのだろうか。

「でも、父は戦争で死んだ」

「それを信じ続けるのもいいだろう。数年前ならともかく、今となってはしんの名など役には立たない。しかし、我々に血のつながりがあるのは間違いないようだ。母親は元気にしているのか?」

「行方不明らしい」

 エヴァンの代わりにレノが応える。エヴァンはおくびをこらえている。おそらく、天地が逆転するほどの衝撃を受けているはず。さもありなん、とルーファウスは思う。さあ、エヴァン。落ち着いて考えろ。何が望みだ?

「社長! エヴァン! もっとうれしそうにしてくれよ。離ればなれだった兄弟の再会だぞ!」

 エヴァンは、はしゃぐレノをひと睨みしてからルーファウスに向き直る。

「何が望みだ」

 エヴァンが振り絞るように言った。なるほど、おれたちは確かに血が繋がっているとルーファウスは思い、最初は噛み殺して、しかしすぐに声を出して笑った。

「何がおかしい」

「血の繋がりとはおそろしいな、エヴァン」

 苦労してそれだけ言うと、また笑い出した。声を出して笑うのは久しぶりだった。レノとツォンが不思議そうに自分を見ているのがわかった。部下たちのその表情がおかしく、さらに腹の底から笑いが突き上げてきた。ルーファウスの笑い声を止めたのは裏の森から響く爆発音だった。


  15 バッド・タイミング


 イリーナは集会場に入ると、椅子に縛られたままのスロップに近づいた。逃げようとしたのだろう。椅子は入り口の近くまで移動していた。

「椅子のまま逃げる気? もう少し考えたら?」

「ト、トイレ」

「我慢しな。解放だってさ。レノたちが来るから、その車に乗って帰れって。定員オーバーだから、たぶん荷台だけどね。気に入らないなあ、ほんと」

 イリーナが不満を隠さずに告げると、スロップの表情が明るく輝いた。

「すいません」

「次のプロジェクトが楽しそうだからいいけどさ。あんたなんか、小さい小さい」

「なんですか、次。手伝いますよ」

 調子に乗ったスロップを見て、イリーナの中にいたずらごころが芽生える。

「今のは嘘。実はねえ──」

 イリーナの言葉は爆音にかき消された。壁の丸太が裂け、大きな破片が飛ぶ。そのひとつがスロップの頭に当たり、椅子ごとなぎ倒す。イリーナは爆風に飛ばされ、反対側の壁に、したたかに頭を打った。遠のく意識の中、イリーナは壁にできた穴から入ってくる男たちを見た。その中のひとり、おぼつかない足取りの男に見覚えがあった。小太り、眼鏡、グリーンのシャツとズボン。


*  *


 響き渡る爆音に呼応して、ツォンが出て行った。レノも続こうとして、おれとルーファウスを見比べる。

「行け」

 ルーファウスが命じる。おれもレノに続こうとした。一刻も早く立ち去りたかった。しかし、足が床に張り付いたように動こうとしない。

「爆音とは──久しぶりに聞いたな」

 ルーファウスは腹が立つほど落ち着いてる。おれはと言えば、動かない足が、震え始めていた。

「エヴァン!」

 遠くでキリエの声がした。

「エヴァン!」

 声が近づいてくる。

「女か? 情けない姿を見せるなよ」

 ルーファウスが車椅子のまま近くへ来る。そして右足でおれを蹴った。弱々しい蹴りだったが、おかげでおれは情けないショック状態から解放された。

「キリエ!」

 おれは戸口に走り、外に出た。

「エヴァン、無事?」

 階段を駆け上がってきたキリエが抱きついてきた。おれは真正面からのほうようがもたらす情報量の多さにたじろぐ。

「ああ」

 おれは突っ立ったまま応えた。

「バカ社長!? 本物?」

 キリエがロッジの中のルーファウスに気付き、おれから離れた。外の様子を見ると、ツォンが、レノとルードに指示を出して、自分は保養所のはずれの方へ走り出した。ルードは保養所の入り口の方を気にしている。他のロッジからも人が出てきて、様子を窺っている。

「みんな、部屋に入ってろ!」レノが大声で指示を出した。それからおれを振り返って「社長を頼むぞ!」と叫んだ。

せいこんなの?」

 背後でキリエの声がした。振り返ると、キリエはルーファウスの前にひざまずいて、心配そうな顔で相手を見上げていた。右手がルーファウスの膝に置かれている。気に入らない。キリエ、何をしている?

「痛む?」

「たまにな」

 ルーファウスがキリエを見返しながら答える。

「これまでの報いだ」

 おれは横から言った。

「エヴァン、ビッツにもそう言える?」

 キリエが眉をひそめる。ルーファウスが鼻で笑うのがわかった。みじめだ。外からエンジン音が聞こえた。救われた気がして外を見ると、セダンタイプの車が乱暴な運転で広場に入ってくるのが見えた。後輪を振り回し、芝生を削りながら周回して、やがて車は停まる。エンジンはかけたままだ。車には見覚えがあった。ドイル村の中庭に置いてあったものだ。レノとルードが二手に分かれて、大きくかいしながら車に近づくのが見えた。

「キリエ、大変だ」

 車の後部座席の窓が開いて二回光った。同時にパンパンという渇いた破裂音。銃声だ。レノが木陰に身を隠す。ルードも同じように隠れている。

「スロップはもらっていく!」

 聞き覚えのある声だった。

「キリエ、ファビオだ」

「まさか!」

 すぐ横でキリエが言った。やがて後部座席のドアが開いてファビオが降りてきた。まだ身体が痛むらしく、よろよろしている。そして手に持った銃をレノが隠れている木に向けて三発、続けて撃った。

「薬を盗んだのは悪かった。でも、おれは報いを受けた。スロップは連れて帰る。これでチャラだ。いいな?」

 ところどころ声がかすれていた。ルードがファビオの背後から近づこうと動き出した。

「ファビオ、後ろ!」

 別の声。村長の声だった。ファビオは振り返ると、一発撃った。しかし、ルードはゆうぜんと歩き続けている。

「撃つぞ!」

 ファビオが銃口を向ける。

「いいぞ」

 ルードが応じるのと同時に、レノもかげから離れて歩き出す。ファビオは迷ったあげくルードに狙いを定め、引き金を引く。渇いた、小さな金属音が聞こえた。弾切れだ。ファビオのろうばいが手に取るようにわかった。

「ファビオ、逃げて!」

 耳元でキリエが叫ぶ。ファビオがおれたちを見上げる。顔に驚きが浮かぶ。

「ファビオ、車に戻れ!」

 村長の声。ファビオはまだおれたちを見ている。

「こっちは大丈夫!」

 またキリエが言った。ファビオは一歩、おれたちに踏み出した。しかし、かなり近づいているレノに気づいて車に戻った。バタンとドアが閉まると同時にエンジンが高らかにほうこうをあげて、そして止まった。レノとルードが前後から車に近づく。いつの間にか手には棒状の武器を持っていた。エンジンをかけようとする空しい努力の音が保養所に反響する。

「エヴァン、なんとかしなくちゃ」

「うん」

 しかし、何をどうする。レノが車に達して、手馴れた武器さばきでフロントガラスを叩いた。くぐもった音がしてガラスが砕け散った。

「手ぇ上げて出てこいよ、と」

 声にうながされて見知った顔がぞろぞろと車から出てきた。ファビオ、村長、キーオ、そして最後に出てきたのは──初めて見る顔だったが、あれがスロップなのだろう。

「ひざまずけ。手はそのまま」

 ルードが言った。全員従ったがファビオは膝を折り、そのまま倒れてしまった。相当無理をして来たはずだ。

「どうしよう、エヴァン」

 おれは策を求めて外の様子を、それからロッジの中を見た。ルーファウスが顔を伏せ、かすかに笑っている。この事態にもまったく動じていない。この男は、いったい、どんな人生を送ってきたのだろう。

「ルーファウスさん、なんとかして。あなたが命令すれば、すぐに終わるでしょう?」

 キリエがルーファウスの腕に手を添えてこんがんした。

「ルーファウスさん!」

 キリエはもうおれの方を見向きもしない。

「エヴァンがなんとかする」ルーファウスはおれを見て言った。「選択肢はあまりないが、見せ場だ」そして、車椅子を回転させ、奥にある扉へ向ってゆっくりと移動する。無防備にもほどがある。今、襲えば──

「選択肢はひとつしかない」

 おれは呟くと、ルーファウスを追い、車椅子を引き戻す。そして方向を変え、戸口の外に押し出した。

「レノ、ルード、こっちを見ろ!」

 そう叫んだものの、その場にいる全員の視線を感じ、おれはたじろぐ。しかしもう引き下がれない。「社長の命が惜しかったら」惜しかったらどうする?「ふたりとも車から離れろ!」

「勘弁してくれよ」

 レノが首を振りながらこっちへ来て、階段を上がり始める。

「ルードも、ファビオたちから離れろ!」

 その間にもレノはどんどん近づいてくる。

「止まれ!」

 レノは素直に従った。怒りに燃える目を想像していたが、タークスの目は悲しそうだった。自分でも意外なことに胸が痛んだ。しかし、これしか方法はない。おれはポケットに手を突っこんでキリエから預かっていたナイフを取り出し、刃を出した。貧弱な刃だが、人間の首を切り裂くくらいはできるだろう。

「バカなまねはよせよ──と」

 おれは無視して静かにルーファウスしんの首筋にナイフを近づけた。全身に悪寒が走り、おくびが出た。おれは呼吸を整え、外に向かって叫んだ。

「村長! 保養所を出て少し行ったところにトラックが止めてある。神羅のトラックだ。それをここまで持ってきて」

「了解!」

 形勢逆転の気配に奮い立ったらしい村長がハリのある声で応じ、走り去った。

「レノ。ルードと一緒にラボの様子を見に行け。ツォンには、手出し無用と伝えろ」

 ルーファウスが突然指示を出した。

「マジっすかあ。社長、マジっすかあ!」

「おれも命は惜しい」

 レノが渋々と、何度も振り返りながら階段を下りていった。

「キリエというのか?」

 ルーファウスは広場の様子を見ながら言った。

「キリエ・カナン」

 キリエが戸惑いながら応えた。

「わたしのガウンのポケットに銃が入っている。それを持って行け」

 おれは驚いてルーファウスを見る。両手を腹の上に乗せ、指を軽く組んでいる。手を伸ばせばポケットに届く。つまり、おれは殺されていたかもしれない。キリエもそれに気づいたのか、慌てて銃を取り出した。

「奥の部屋に弾が何箱かある。それも持って行け」

 キリエはおれにうなずいて奥の部屋へ入っていった。

「何故だ」

 おれは思わず聞いた。

「帰るんだろう? 荒野はモンスターが少なくないぞ。こんなナイフだけではどうにもならない」

「そういう意味じゃなくて」

「花を持たせてやる。ただし、これが最後だ。もし次があったらようしゃはしない。たとえ血の繋がり──」

「あった!」

 キリエが戻ってくるのと同時に、広場に、エンジン音がけたたましく響いた。

「さあ、行け」

「──早く良くなってね」

 キリエがずいぶん言葉を探したという感じで言った。そして、エヴァン、行こう、とささやき、慌ただしくロッジを出て行った。おれも何か言わなくては。最善の言葉。おれたちの関係、そして別れにふさわしい言葉が必要だ。

「うらやましくなんかないからな」

 なんて子供じみたことを、と思いながら、ルーファウスの反応を待つ。

「そうだろうな」

 ルーファウスは表情を変えずに言った。

「エヴァン、みんなが待ってる」

 階段の途中からキリエが呼ぶ。おれは車椅子をロッジの中央に戻し、そして、ナイフの刃をたたんでルーファウスの膝に置いた。

「銃の代わりだ」


*  *


 エヴァンたちが去ったロッジでルーファウスはナイフをもてあそんでいた。子供が使うような、小さな工作用のナイフだった。ルーファウスが初めて手にしたナイフは、兵士への支給品を選定する時に余ったサンプルだった。刃渡り二十センチほどだったろうか。もしかしたら、自分にもエヴァンやキリエのような人生があったのかもしれないと想像を巡らせたが、案の定、できなかった。


  16 みじめな気持ち


 トラックはモンスターに出会うこともなく、エッジ目指して順調に走った。運転を買ってでた村長、全身が痛むファビオ、爆音で耳が聞こえないと恨み言を呟くスロップ、そして爆弾男のキーオが車内にいた。キリエとおれは、吹きさらしの荷台で、冬の鳩のように寄り添っていた。月明かりに照らされた荒野が、キャビンを背に座っているおれたちの左右を流れていった。時々、地面のおうとつでトラックが弾むので、振り落とされないように、それなりの緊張を強いられた。

「これ、使い方知ってる?」

 キリエはずっと握っていたらしい銃を見せて言った。

「そのタイプは知らないな」

 言うまでもなく、どのタイプの銃であれ、知らない。また、くだらない嘘を重ねた。

「ねえ、社長とは何を話したの?」

 改めて聞かれると、おれにもわからなかった。レノのおもわくでは、異母兄弟が感動の対面を果たすはずだった。感動は全くなかった。あったのは戸惑い。そして、劣等感。ルーファウスしんと比べると、おれはいかにも凡人だった。しかも、かなわないと知りながら、精一杯きょせいを張った。これからの人生で、何度も思い出しては恥ずかしさのあまり頭をきむしることになる、そういうたぐいの出来事だった。

「雰囲気が似てるから、おれを替え玉に雇おうとしたらしい。もちろん、断ったけど」

 ということにしておこう。問題はないはずだ。

「似ているとは思うけど──バカにしてるね」

「まったく」

「追ってくると思う? 社長にあんなことしちゃったし、ファビオたちなんか、爆弾で建物を壊したんでしょ?」

「来ない」

 別れ際のルーファウスの言葉を思い出しながらおれは請け負った。

「でも、気が変わるかもよ」

「まあ、世の中、絶対なんてないからな」

「かっこつけるな」

「そんなつもりは無いけど──はっきり言って、おれたちはしんにとってどうでもいい連中なんだよ。向こうにしてみれば、ザコ」

「それはそれで腹が立つなあ」

「住んでる世界が違うんだ」

 そう考えれば、ルーファウスの前で抱いた劣等感が少しは和らぐような気がした。

「でも、ルーファウス神羅って迫力あったね。バカ社長なんて、もう呼べないな」

「ああ、勝てない」

「うん、いかにも頭が切れそうだし、冷静沈着にして大胆。ルックスもいいし、何より、心が大きい。理想の男って感じ」

 たった今、勝てないと言ったのはおれだ。しかし、キリエが全面的に認めると腹が立つ。残念ながら、おれの心は大きくない。

「じゃあ、戻れば?」

 取り返しの付かないことを言ったという自覚はあった。だから、黙っているキリエの顔を見ることができなかった。

「参ったな。なんでそうなるかな」

 キリエがゆっくり立ち上がる。キャビンに寄りかかって身体を支えると、後方に向かって銃を構える。

「キリエ?」

「エヴァンの、ばーか」

 キリエの手元が光り、パンと渇いた音がした。次の瞬間、トラックが大きく跳ねた。キリエが短い悲鳴をあげ、バランスを崩し、荷台の外に倒れそうになる。おれは自分でも驚くほどの素早さで右手を伸ばし、キリエの腕をつかんで引いた。キリエは勢いよく、座ったままのおれに倒れてくる。もう大丈夫だと思った。しかし、トラックがもう一度跳ねた。キリエの足は荷台を離れ、完全なる落下物としておれの上に落ちてきた。おれはキリエを支えきれず、そのまま後方に倒れた。後頭部に衝撃が走る。火花が散るというのは本当だった。何故か火薬の匂いが鼻の奥から漂ってくる。そして暗転。


*  *


「この子、頭も悪いんですって。お母さん、それ聞いて倒れちゃったって」

 若い女の声が耳の奥でした。消毒薬の匂いがする。

「しっ。患者の前でそんな話をしないで」

 別の女が注意する。おれは二人に背を向けて寝たふりをしている。頭がズキズキと痛んだ。


*  *


「おお、気がついたか。どれどれ」分厚いレンズの丸眼鏡がおれの顔を覗き込む。ペンライトで目を照らされる。「光を追ってくれ」

 おれは言われた通りに光を目で追った。

「うん、大丈夫だろう。痛むか?」

「はい」

「ちょっとしたコブができている。そのせいだろう」ドレイク先生が眼鏡の奥で目を細める。「唾でもつけとけ。で、帰る準備ができたら診察室に来てくれ」

 そう言い残し、ドレイク先生は出て行った。熊のような巨体が立ち去ると、その後ろにいたキリエの姿が目に入る。

「やあ」

「痛むの?」

「たいしたことない」

「ごめんね。わたし、どうしてあんなことをしたんだろう」

 キリエは目を伏せる。彼女の行動には驚いた。しかし、原因を作ったのはおれだ。おれがキリエを怒らせた。いや、失望させたのだ。銃をぶっ放すほどに。

「キリエ?」

「ん?」

「コブが痛いから、ちょっと目を閉じたいんだ」

 たいしたことはないと言ったばかりだったが、理由はなんでも良かった。時間を稼ぎたい。

「わかった。待合室にいる」

 突然、オフィスで、ルードから逃げだそうと話していた時のことを思い出した。キリエの、高揚した目の輝き。弾んだ口調。彼女にふさわしいのは、あれくらいの事なら、一緒に楽しんで、しかも楽にクリアできる男だ。たとえば、ヒーリンにいた、あの男。

「あのさ、やっぱり、待ってなくていいよ」

「でも──」

 ここでやめとけ。

「キリエが責任を感じる必要はない。おれがダメな奴だってだけの話。失格。不合格。おやすみ」

 ああ。おれは目を閉じる。十秒後、病室から駆け出す足音がした。終わった、と思った。


 十分ほどしてからベッドを出た。病室にはベッドが四つあったが、おれ以外には誰もいなかった。床にあったブーツをき、壁際のハンガースタンドからジャケットを取り、る。ショルダーバッグと帽子は隣のベッドに置いてあった。そのふたつを身につけ、忘れ物がないか確認する。最後に、簡単にベッドを整え、病室を出た。右の突き当たりにはトイレがある。おれは左へ進む。短い廊下はすぐに突き当たりになる。右に曲がると待合室だ。深呼吸してから待合室に入った。誰もいなかった。ああ、そのとおり。おれは期待していた。つまり、帰るといいつつも、待っているキリエの姿を。身勝手さのコンテストがあったら、おれは間違いなく上位に食い込むだろう。

「ああ、エヴァン。来てくれ」

 ドレイク先生が診察室から顔を出して呼んだ。

「エヴァン。これは大事なことだからよく聞いてくれ」ドレイク先生は歳の割には多すぎる白髪をき上げる。「君は頭を打った。本来なら、しかるべき検査をすべきだ。しかし、必要な装置がここにはないんだ」

「大丈夫ですよ、きっと」

「わたしもそう思いたい。でも、頭はなあ、難しいんだ。何年も経ってから症状が出て、その場合は、たいてい取り返しがつかない」

「脅かさないでくださいよ」

「いや、これは脅しだ。いいか? これから先、もし、少しでも気になることがあったらここに来るんだ。いいな?」

 先生は真剣な顔をしていた。腹の底に重い塊ができたような気がした。話を早く終わらせたくて、おれはうなずく。どうせ、ここでは何もできないのだ。

「ところで、エヴァン。君が初めて来たのは一年前だったかな」

「はい」

「さっき見せてもらったが──胸にあるのは手術の跡だな?」

「はあ」

 おれの胸には五歳の時に受けた手術の跡がある。縫った医者が下手だったのか、引きれた、かなり派手な跡だ。

「それを縫ったのは、わたしだ」

「えっ?」

「十五年くらい前だろう? 当時、わたしはまだ駆け出しの軍医だった。もちろん、しんのな。基本的にはじゅうそうだの、切り傷だのの処置ばかり。毎日人の身体に針と糸を通していた。でも、兵士連中は、くんしょう代わりに派手な傷を残したがってな。バカバカしいと思いながら注文に従っていたら、わたしはすっかり繊細な縫合ができない医者になっていた。君の傷跡は、その結果だ。すまない。言い訳になるが、子供の縫合なんて初めてだったんだ。しかも、元々の切開も大きかった」

「もういいですよ。生きてますから」

「うん。その答えを期待していた」先生はきれいな歯を見せる。「それで、心臓の調子はどうだ?」

「意識したことはないです」

「だろうな。手術は完璧だったはずだ」先生はうなずき、そして探るような顔でおれを見た。「なあ、いったい、どんなコネがあったんだ? しっとうしんのトップだった。一般人の手術をするなんて普通ならあり得ない」

 なるほど。おれは、あるいは母は、神羅カンパニーに対して世界の誰よりも強力なコネを持っていた。こんなことで証明されるとは。

「さあ。何も聞いていません」

 この話題はできれば避けたい。そろそろ帰るべきだ。

「そうか。まあ、子供にする手術としては珍しかったからな。研究も兼ねて、無料でやったというあたりかな。お母さんは神羅の医者に知り合いがいたんだろう。きっとそんなところだ」

 おれはうなずき、立ち上がり、そして思い出した。

「先生、治療費なんですけど──」

「それなら、もうもらった。あの、やせっぽちの娘さんから」

 やせっぽちの娘? 誰だ。

「失礼。やせっぽちなんてのは、配慮が足りなかった。ええと──」先生は机の上の書類を見て

「キリエ・カナン。恋人かな?」

「いいえ」

「ケンカでもしたか? 怖い顔して出ていったぞ」

「そんなこと──」

「余計なお世話か。まあ、とにかく、彼女にこれを返してくれ」

 ドレイク先生は机の、一番下の引き出しを開けると銃を一丁取り出し、おれに差し出した。

「こいつとマテリアを治療費代わりに置いていった。一応受け取ったが、銃は返しておくよ。こう見えて、何丁か持っているからな」

 ルーファウスからもらった銃だった。おれは、はあ、と間の抜けた返事をしながら受け取り、バッグにしまった。

「じゃあ、治療費は後で持ってきます」

「いや、マテリアだけでかまわんよ。胸の傷のおびも兼ねて、今回はそれで手を打とう」

 ありがたい話だと思ったが、よく考えれば、割に合わないのかもしれない。胸の傷は一生ものだし、今回の怪我は唾を付ければ治る程度なのだ。

「とにかく、エヴァン。体調に異変を感じたら、すぐに来てくれよ。目、耳、手足のしびれ。症状はいろいろだ」

「はい。それから、先生──」どうしても言っておかなくてはならない気がした。「キリエはやせっぽちじゃありません」

 先生は不思議そうな顔でおれを見た。そして、微笑む。

「追いかけた方がいいんじゃないかな?」


 おれは診療所の前で、たっぷり三分、これから取るべき行動について考えた。そして、スラムに向けて歩き出す。歩きながら、キリエに会って、何を話そうと思いを巡らせる。謝るのか? 確かに、その必要がある。そして、それからどうする? その場の流れにまかせるしかないだろう。しかし、流れにまかせると、いつも間違ったせんたくを選んでしまう。ルーファウスしんだったら、どうするのだろう。いや。ルーファウスなら、そもそも、くだらないしっで、好きな子を失望させたりはしない。つまりおれは、最初の選択を間違ったわけだ。もう、遅い。絶望的に、遅い。

 おれは方向を変え、ドイル村目指して歩き始めた。


  17 後始末