31 へいおんな旅、そして回想


 短いきゅうけいはさみながら昼近くまで車を走らせた。知らなかったが、荒野といっても、まったく道しるべがないわけではなかった。人のおうらいが皆無ではないことを示す跡があり、それが道しるべ代わりになった。夜まで走り、眠り、明日の朝ドライブを再開すれば、遅くても夕方にはアンダージュノンに着く。そんなばくぜんとした予定を立てながら走っていた。問題がないわけではない。風以外の、わけのわからないものが車内に飛び込んでくるひんはエッジの比ではない。それをけるために、キリエをて、ゴーグルと布で顔を隠して運転した。会話は当然大声になる。最初のうちは、目新しい風景を見るたびに感想を言い合っていた。しかし、布と風の音のせいで声が通らない。互いに、え? なに? と聞き返すことが多くなり、やがて黙り込む。キリエは、見せたい風景があると、おれの肩か腕をたたいて知らせた。おれも同じようにした。しまいには、キリエに触れるために風景を探すようになった。エヴァン。エヴァン・タウンゼント。全身から自制心をき集めろ。

「──」

「え?」

「お腹空いたね」

 なるほど。そう言われればそうだ。おれは車を止めて、口の布をはずす。

「マールのパン、食べようか」

「でも、景色がなあ」

 キリエは無念そうに周囲を見回す。草の緑と乾燥した土の薄茶色。空の青と雲の白。四色で塗り分けられた世界は、この二時間ほど、おみのものになっていた。キリエはため息をつき、仕方ないか、とパンの包みを開いた。端をり、自分で食べる。おいしいと言い、半分近くまで千切り、おれに渡す。おれはそのまま口へ運び、かぶりつく。

「このパン、甘いね。高級な味!」

「うん、本当だ」

 ミッドガルのプレートではあたり前の味だった。ほんのりと甘いパン。作ったマールはプレート育ちなのだろうか。おれはマールの人生について想像した。コルネオのところで見た写真を思い出す。愉快な想像にはならなかった。レズリーと一緒の時の、幸せそうな笑顔だけが救いだ。

「今度、作り方を教えてもらおうか」

「いいかも。でも、わたし、作れないと思う」

 おれは、キリエは火を使えないと言っていたレズリーの話を思い出す。

「大丈夫。まかせてくれ」

「おお、頼もしい!」

 そしてキリエはもうひとかけら、パンを口にいれる。黙ってむ。遠くを見ている。未来を見ているのだろうか。キリエのほおが緩む。パンを作るおれがいたのだろうか。おれもパンをかじり、前方を見た。荒野の、うっすらとした道が伸びている。この道を見失わないように──

「行こうか」

「うん」


 助手席のキリエは、マシンガンにマガジンを付けたり外したりを繰り返す。これ、簡単と言いながら、時々、前方に向けて撃つふりをした。

「撃ってみれば?」

 おれは大声で言う。キリエはしばらくちゅうちょしていたが、やがて、身体を乗り出し、引き金を絞った。しかし、何も起こらなかった。

「壊れてる!」

 言いながら身体をひねり、後部座席にマシンガンを戻す。もう一丁を手に取り、マガジンを装着して、引き金を引く。

「これも壊れてる!」

 キリエが首をがくりと下げる。ここまでそれらしい気配はなかったので、モンスターのことはほとんど考えずに過ごしていた。しかし、マシンガンが使えないとなると、ぜん心配になってきた。しかし、二人で不安がっても仕方がない。

「ルーファウスしんからもらった銃があるから、それでなんとかしよう」

 おれはジャケットのポケットからピストルを取り出してキリエに渡す。

「これ──ドレイク先生に渡したのに」

「結局、ただにしてくれたんだ」

「どうして?」

 大声で説明するには長い話だ。

「今度話す」

 キリエはそれで納得したようだった。銃を前に向けると引き金に指をかける。車の振動に合わせて、キリエの腕が上下に揺れた。それでは絶対に的に当たらない。これは確信に近い。モンスターよ現れてくれるな、と、おれは祈った。


 やがて日が落ちた。おれは一晩過ごせそうな場所を探していた。といっても、あたりは荒野。もちろん車の中で眠るしかない。たまたま目についた岩山の陰に車を寄せ、エンジンを切った。岩山の近くが安全だという根拠は何もなかった。ただ、普段眠る時と同じ。壁にくっついて寝る習慣があった。

「ここにしよう」

「大丈夫かな?」

 車と燃料さえあればなんとかなると思っていたおれは、他には何も準備をしていなかった。道中の食事の事さえ考えていなかったくらいだ。大丈夫かと聞かれても答えようがなかった。

「わたし、運転しようか? タークスのトラックに比べたら簡単そう。おもちゃみたい」

 黙り込んだおれにキリエが言う。運転が簡単なのはその通りだが、おれは少々傷つく。

「夜はわたしが運転して、エヴァンは寝る。そして朝に交代。どう?」

 うん、とは言ったものの、昼夜の割り振りは逆の方が良いのではと思いちゅうちょした。その間にキリエは車を降り、運転席の外に回り込んで来る。おれは仕方なく、交代する。

「まず、キーを──」

「シッ!」

 おれを黙らせるとキリエはイグニッションキーを捻る。エンジンが震えた。

「次に、ほら、左手を下に伸ばすと──」

「シッ」

 キリエはハンドルの下をのぞき込んで、サイドブレーキレバーを捻る。これこれ、と言いながらアクセルを踏み込む。

「やっぱり簡単!」

「人がいないとね。ほら、エッジの広場なんか──」

「そんなところ走らないから大丈夫」

 そしてブレーキ。

「さあ、後ろ行って」

「ここでいいよ」

「だって、口出すでしょ?」


 おれは、いつのまにかキリエの部屋のようになってしまった後部座席に寝転がっていた。助手席側を頭にしたので運転しているキリエの姿が見える。夜の荒野を進むにあたり、注意したいことが次から次へと浮かんできたが、我慢した。

「早く寝て」

「うん」

 おれは壊れたマシンガンを胸に抱え、目を閉じる。

「ねえ、どうして夜にミッドガルを出たわけ? 昼間でしょ、普通」

 しばらくして、キリエが言った。おれはなんのことかわからず、聞き返す。

「ほら、わたしたちが出会った日。ヘッドライトの光で思い出しちゃった」

「ああ、あの時」

「ごめん、話しかけちゃダメだよね。寝て」


*  *


 もう、思い出さないわけにはいかなかった。


*  *


 二年前。ライフストリームがメテオを消し飛ばしてから七日間、おれは母が帰ってくるのではないかと期待しながらぐずぐずと過ごしていた。これほど心配しているのに戻らない母に腹を立ててさえいた。実に利己的な怒り。ミッドガルが崩れ落ちるというウワサも聞いていたし、避難勧告が出ていることも知っていた。隣人たちはさっさと逃げ出していて、ミッドガルはほんの少し前のにぎやかさがうそのようにかんさんとしていた。五日目に、我が家にあった食料が尽きた。水道は使えなくなっていたので水はトイレのタンクにまっていたものを飲んでいた。非常事態とはいえ、苦痛だった。本当に耐えられなくなった時しか飲まなかった。しかし、それでも残量はゼロに近かった。もはやこれまで。明日は出ようと眠りにつくが、目覚めると、また母のことを考えてしまう。空腹は耐えがたかったが、それでも決断できずにいた。今度こそ。明日こそは出よう。また戻ってくればいいのだと自分に言い聞かせた。七日目、おれはついに、一度、外の様子を見に行こうと決意した。すぐ戻るつもりだったので、誕生日プレゼントのショルダーバッグに、あたりにあったものを適当に詰め込んだ。午後二時くらいだった。いなくなる前なら、母が、遅い昼食のためにカフェから一度帰宅する時間だった。そんなことはもうないと思いながらも、少しだけ待つことにした。何気なく、近くにあった本を手に取ってページをめくり始めた。母が出て行ってから何度も読んだ「ウータイからの脱出」の上巻だ。例のバカな男が死ぬところまで読み進んだ時に、部屋が薄暗くなってきたことに気づいた。もう夕方だった。おれはまた機会をいっした。明日にしようと思った時、腹が鳴った。おれのゆうじゅうだんに抗議しているようだった。空腹は我慢できそうな気がしたが、のどの渇きがつらかった。トイレのタンクからんだ水をすいとうに入れていたが、それを飲んでしまえば終わりだ。おれはついに外に出た。暗くなっていた。けいたいライトで周囲を照らしながら、どこか水を飲める、公共の場所はないだろうかと記憶を辿たどった。住人がいない家が多かったので、忍び込むことも頭をよぎったが、水道が使えないのはどこも同じだ。他人の家のトイレの水など絶対に飲めない。

 そして、彼女と出会った。クリーム色のショートパンツから伸びた足を投げ出し、道ばたに座り込んでいた。みぎひざが血で染まっていた。ライトを向けると、まぶしそうに腕で顔を隠した。

「ごめん」

 おれはライトを消し、そのまま立ち去ろうとした。

「このあたりの人?」

「うん、まあ」

 記念すべき、初めての会話だ。

「水、持ってません? 傷を洗いたいの」

「うん、あるよ」

 おれはバッグから水筒を出しながらくらやみの中、近づいた。そして水筒を差し出す。

「ありがとう」

 彼女はふたを開けながら顔を上げた。

「もしかして、最後の水?」

 黒い、真っ直ぐなロングヘアーに縁取られた小さな顔の中で、大きな目と、柔らかそうな唇がほほんでいた。おれは抱えていた問題を一瞬忘れた。

「半分くらい、使ってもいい?」

「好きなだけ、いいよ」

「悪いよ」

 彼女は水を手のひらに注ぐと素早く膝につけて洗い始めた。

「汚れだけは落としておかないとね」

「そうだな」

「うん、これでいいかな。血は、止まってる」

 そして立ち上がり、右足で一歩踏み出し、痛いと言いながら、よろめいた。しかも、おれの方に。おれは慌てて横から受け止める。

「参ったなあ。まだ痛い」

「おぶろうか?」

 正解は、肩を貸そうかだったのではないかと思う。しかし、おれが言ったのは「おぶろうか」だった。

「そこまでしてもらうのは──」

 普通、女の子は初対面の男に、少々足が痛いくらいでおぶられたりはしない。そんなことにも思い至らなかった。

「やっぱり、お願いしちゃおうかな」

 彼女は脚を引きずりながら背後に回ろうとした。おれは慌てて背中を向ける。

「失礼します」

 少し腰を落とすと、両肩に手が乗ってきた。直後、足腰に彼女の重さを、背中に柔らかさを感じる。おれは慌てて彼女の、き出しの脚を受け止める。

「どこへ行くんだ?」

 おれは何も気にしていないふりをして、聞いた。

「スラム」

「わかった」

 了解はしたが、想定外だった。彼女の無防備な軽装から、このあたりの子だろうと思っていたのだ。

「ミッドガル脱出?」

「そんな感じ」

「実は、おれも」

 おそらく、ミッドガルから降りることを決断したのはこの時。嘘に彩られた、出会いのおかげだ。

「へえ、夜に出るなんて珍しいね」

「きみもだろ?」

「そっか」

「ああ、おれはエヴァン・タウンゼント。きみは?」

「わたしはミレイユ・ダッドリー」

 出会ってからの短い会話の中で、彼女がついた嘘はいったい何個目だろう? もちろん、その時のおれに疑う理由はない。

「ねえ、エヴァン。スラムまでは遠いから、疲れたら言ってね。限界まで我慢しちゃダメ」

「わかった」

「小さい子みたいに抱きついていい? ほら、その方が、お互い楽でしょ?」

「ああ、そうか」

 そして細い腕がおれの首に巻き付いた。ライトの光がメチャクチャに揺れた。

 それからずいぶん時間をかけて駅まで歩いた。おれたち以外にも人は大勢いて、彼らはたいてい少しためらってから線路に降りる。歩いてスラムまで降りるのだ。もしかしたら、そのままミッドガルには戻らないかもしれない。誰だって躊躇するだろう。しかし、おれは立ち止まらず、ホームの端の階段を使って線路に降りた。背中の女の子に、他の連中とは違うと思われたかった。

 中央支柱の周囲をせんじょうに下る線路を、足下に注意しながら降りた。いったいどれほど歩けばいいのか、見当もつかなかった。途中彼女は何度かきゅうけいうながしたり、そろそろ自分で歩くと言ったがおれは断って歩き続けた。拒否した理由は、当然、見栄と意地だ。

「ねえ、エヴァン? そのバッグ、わたしが持とうかな」

「大丈夫だよ」

「ちがうの。足に当たって痛い」

「ああ、気づかなかった」

「わたし、やるね」

 彼女はおれの背中で器用に動き、たすき掛けにしていたバッグの肩布を抜き取った。


 何度か膝が崩れそうになった。思い悩んでいたくせに、結局、実に軽いノリで家から離れてしまった後悔もあった。しかし、それでも、ついに線路を下りきり、スラムの駅に到着した。

 駅は、ミッドガルから避難してきたものの、行くてのない人々でごった返していた。空気には初めてぐ不快な臭いが混じっていた。すぐに死体を焼く臭いだと気づいた。せいこんしょうこうぐんで──当時はまだなぞの奇病。名前もなかった──死んだ人たちを駅の近くで焼いていたのだ。

「ありがとう」

 背中から飛び降り、ミレイユ、つまりキリエは礼を言った。

「やっぱり、少しは休めば良かったな」

 おれは冗談めかして言った。

「あれっ?」おれの背後を指さし、キリエが言った。「今、誰かがあなたを呼んだみたい。エヴァンって。女の人の声、聞いた?」

 おれは驚き、彼女が指さす方向を見て、声の主を探した。

「どこ?」

 返事を待ちながらも目は母を探していた。おれを呼ぶ女の声。母以外に思いつかない。

「ミレイユ、その人はどこにいるんだ?」

 返事はなかった。振り返ると走り去るミレイユの後ろ姿が見えた。彼女の背中で、おれのバッグが弾んでいた。わけがわからなかった。一歩踏み出した時、膝が抜けたようになり、おれはバランスを崩した。脚の感覚がなくなったような気がした。おれはたまらず、その場に尻をついて座った。その時になって、自分の立場と状況が理解できた。しかし、彼女を責める気にはならなかった。簡単にだまされた自分の愚かさが悔しく、情けなかった。


「どうした? か? 病気か?」

 スラムに着いてから半日、ずっとうずくまっていたおれに、ひげ面の大男が声をかけてきた。

「いや、大丈夫。休んでいるだけ」

 腹が鳴った。大男は笑うと、何かをおれの鼻先に放った。

「おまえ、プレートから来たんだろ? それ喰ったら、動け。プレートの生活なんか忘れて、ここに慣れろ。これからはノラ猫にならないと生きてけねえぞ。飼ってくれる奴なんかどこにもいねえからな」

 目の前に落ちているチョコレートバーを見つめて、怒鳴るような話し方をする男の声を聞いていた。ぼんやりと、クロのことを思い出していた。彼が我が家の飼い猫だったように、おれも、母に飼われていたのだ。ずっとクロのことを飼い主として心配していた自分がおかしかった。涙が流れた。目をきつく閉じ、開くとチョコレートバーが無くなっていた。

「エヴァン?」

 彼女が声をかけてきたのはまさにそんな時だった。おれを騙した女。ほとんど寝転がったまま見上げるとばんそうこうを貼った膝が目に入った。傷だけは嘘ではなかったようだ。

「一緒に来て」

 手を引いておれを起こし、立ち上がらせた。それからスラムをしばらく歩いた。初めてのスラムだったが、観察する余裕はまったくなかった。彼女は時折振り返って、ごめんね、と謝った。やがて、わたし、おんぶ強盗なのと告白した。怪我をしたふりをして、相手におぶらせ、疲れさせ、最後に喉に小さなナイフを突きつけて金品を奪う。大抵の場合、相手は疲労で抵抗する気がえている。体力の無さそうな、中年のおじさんをねらうのだ、と言った。おれはそれに引っかかったらしい。しかも、自ら申し出て。間抜けもいいところだ。

「今回はそんなことをするつもりはなかったんだ。ミッドガルに誰もいなくなって、盗み放題って仲間から聞いたから──そしたら、本当に怪我しちゃって──エヴァン、親切にしてくれたから、最後までどうしようか迷ったんだけど──ごめんなさい」

 ナイフを使われなかったのがせめてもの救い。そう思うことにした。

「どうして戻って来たんだ?」

「おばあちゃんにしかられたの」


 やがて一軒の家に着いた。後のミレイユたんていしゃになるあの家だ。木の板をデタラメに貼り合わせた壁が、ひたすら貧しそうだった。窓はガラスでは無く、すべてビニールだった。ほこりくもって、中は見えない。おれの「スラムの家」のイメージどおりの建物だった。貧弱そうなドアを開けるとすぐに狭いリビングだった。しかし、壁全体がクリーム色の壁布でおおわれ、外観とは異なり、居心地の良さが感じられた。右手の壁の中央に立派なガラス戸棚があった。棚には、高級そうなとうの人形が並んでいた。

「戦利品?」

 おれが聞くと、彼女は目を伏せた。最初で最後の仕返しだ。奥の部屋のドアが開き、背の低い、太ったお婆さんが出てきた。優しげな笑顔で近づいてくると、いきなりおれを抱きしめた。

「ごめんね、孫を許しておくれ。物を頂く相手はキチンと観察して選ぶように言ってあるんだけどね、いやいや、普段はちゃんとわかってるんだよ。だけど、今回はあの子も疲れていてね──本当に悪かったね」お婆さんは一気に言うと「これはもちろん返すからね」とおれのショルダーバッグを差し出した。

「中身を確認してくれる?」

 おれは言われるままにバッグを受け取り、中身を見た。そもそも何を入れたのか記憶になかった。だから、中を見て驚いた。おれは母にちなんだ品々ばかり持ち出していた。母の本、母のハンカチ、母と撮った写真──

「写真の人は、お母さんなんだろ?」

 お婆さんが聞いた。

「はい」

「元気なのかい?」

「いえ──」

「ほらね、きっとそうだと思ったんだよ。そんな人から思い出をかっぱらうなんて、とんでもない話だ。狙っていいのは、あんたの脚に下心いっぱいの、すけべおやじだけ」

 おれは恥ずかしさに身じろぎした。

「キリエを許してやっておくれ」

「キリエ?」

「あ、わたしの本当の名前はキリエ。キリエ・カナン」

「どうだろう、あんた。わたしたちに罪滅ぼしをさせておくれ。ね? こんなぎょうだからこそ、悪いことをしたらすぐに悔い改めないと本当の悪人になっちまう。わたしたちにチャンスをくれないかい?」

 両手を合わせてこんがんするお婆さんの、善悪の基準が理解できなかった。思わず笑った。

「ありがとう、エヴァン」

 おれの笑顔を勘違いしたらしい。隣でキリエも微笑んだ。


 キリエとミレイユお婆さんの世話になって三日目の夜だった。キリエが「仕事」から勢いよく帰ってくると、見て見て、と言いながらテーブルの上に紙幣を二枚置いた。

「相手はどんなだい?」

 お婆さんが聞いた。

「ちがうちがう」

 キリエは興奮しているようだった。

「今日、ファビオと会ったの。いい金になるから手伝ってくれって言われて、一緒に七番街スラムに行ったんだ。ほら、あのガラクタ山」

 お婆さんがうなずく。おれは、そういう場所があるのだと想像するしかなかった。

「でね、七番街プレートに住んでいたおじいさんが捜し物をしていて、偶然知り合ったファビオに手伝ってくれって頼んだらしいんだ。見つかったらお礼をするって。その額がすごいの! これはもう、絶対見つけてやるって、レズリーも呼んできて、レズリーが知り合いを呼んで、合計六人? その六人で夜までかかって見つけたわけ。大きな金庫。お爺さん、大喜びでお金を払ってくれて、それが、これ」

「六人で分けて、こんなに?」

「うん、おいしいし、うれしい。人に喜ばれるのって、大好き!」


 これがミレイユ探偵社の始まりだ。当然のようにおれも誘われた。最初は断ったが、いつ辞めてもいいという条件で引き受けた。

 翌日、キリエから大きなバッグを借りてミッドガルへ戻った。長い線路を歩くのは苦痛だったが家をそのままにしておくのは気が引けた。もちろん、母のこともあった。自宅に戻ると、室内は荒らされていた。空き巣に入られたらしい。おれはあせって、まず、天井裏の金を確認した。無事だった。それから家の中を歩き回って被害を確認した。電話機とテレビが無くなっていた。他にも盗られたものがあったかもしれないがもう確認する気にはならなかった。物を盗られたことよりも、部屋のちつじょが乱されたことに腹が立っていた。空き巣をののしりながら、時間をかけて部屋を片付けた。泥棒が侵入するために割った窓を天井からがした板でふさいだ。それからやっと、持ち出す物を選ぶ作業に入った。生まれた時から住んでいる家だ。全ての物に思い出と思い入れがある。その中からほんの一握りだけを選んで持ち出すことなどできなかった。結局、天井裏から回収した金、そして何組かの衣類だけを詰め込んだ。この家を捨てるわけではない。少し留守にするだけだ。線路がつながっている限りいつでも戻ることができる。

 最後に母にメモを残した。落ち着き先が決まっていなかった上に、仮の居場所であるキリエの家を伝えるすべがなかったので、スラムの駅に、毎日昼から一時間だけ立っていると書き残した。そして、さらばミッドガル。

 スラムでは、キリエが駅まで迎えに来ていた。二人の、同世代の男を連れていた。灰色の髪をき上げながら、値踏みするような目でおれを見た男。眼鏡の分厚いレンズ越しにおれを見てクスクス笑った小太りの男。名前だけは聞いていたレズリーとファビオだった。一緒に探偵仕事を始めるメンバーだと紹介された。旧知同士の親しげな会話を聞きながら、居心地の悪さを感じていた。早く馴染まなくてはという気持ちと、スラムで暮らそうなどと考えたこと自体がそもそも間違いだったのだという後悔がおれを攻撃的にしたのだろう。

「空き家知ってるけど、あまりいいところじゃないよ。プレート育ちじゃキツイかも」

 ファビオが言った。

「確かにプレート育ちだけどな。見くびるなよな」

 キリエとファビオが目を丸くしておれを見た。レズリーは背を向け、地面を見つめていた。今にして思えば、笑いをみ殺していたのだろう。

 こうして、スラムでの生活が始まった。ファビオが紹介してくれた空き家の環境は最悪だった。周囲には目つきの悪い連中が住んでいた。レズリーがおれをその連中ひとりひとりに紹介した。実際に暮らしてみると、彼らはまったくと言っていいほどかんしょうしてくることはなかった。今ならその理由がわかる。レズリーに感謝。

 早速始まった探偵業は思いの外好調だった。物探しは、小銭や菓子で働く孤児たちのどくだんじょうだったので、おれたちは人捜しに重点を置いた。駅周辺で右往左往している連中に御用聞きをし、はぐれてしまった家族や友人を探し出して報酬を得た。多くの場合、駅からそう遠くない場所で見つかったので楽な仕事だった。プレートからのなんみんは、駅からあまり離れようとしない。おれは客を見つけるのがかった。身なりの良い相手を見つけては話しかける。誰もが、消息不明の家族や、友人、知人を探していた。見ず知らずの他人に話しかけるのは苦痛だったが、そうしなければ生きていけないと、おれなりに覚悟を決めて努力していた。母に残したメモどおりに駅に立っていたのは最初の三日くらいだった。それよりも、自分の居場所を確保することに精一杯だった。ひと月ほど経った頃には、おれは一人前のノラ猫気分だった。


  32 チョコボに乗った女の子


 目覚めると夜で、車はまっていた。慌ててキリエの姿を確認すると、首をガクリと助手席側に倒して眠っていた。見ているこっちの首まで痛くなる。おれは車を揺らさないようにゆっくりと身体を起こす。

「う」

 キリエがうめき、目を覚ます。首が、と言いながらそのまま固まっていた。後ろから手を差し出し、キリエの頭を支え、静かに持ち上げてやる。

「大丈夫か?」

「うう」

 途中から自力で体勢を立て直し、首をほぐし始める。

「ごめん、眠くなっちゃって──」

「シッ!」

 おれはキリエをさえぎり、前方を指さす。

「あっ」

 月明かりの荒野の、二十メートルほど先にそいつはいた。本物のチョコボは初めてだった。眠そうな目でこっちを見ていた。しかも、チョコボの背にはがらな女の子が乗っている。おれは足下に落ちていたマシンガンを拾う。チョコボはおれの知る限り、危険な生き物ではない。女の子からも敵意は感じなかった。しかし、用心は必要だ。おれの知識などあてにならないし、身近な女の子の気持ちでさえ判断に苦しむのだから。

「どうする?」

 キリエがく。

「まかせろ」

 銃があればなんとでもなる。静かにドアを開き、女の子をえて外に出る。

「それ、壊れてるからね」

 身体が半ば外に出た時、キリエがささやく。すっかり忘れていた。しかし、もう引き下がれず、そのまま降りて、車の横に立つ。ゆっくりとチョコボに銃口を向ける。

「止まれ!」

 おれは声を張り上げる。しかし、チョコボは女の子を乗せて近づいてくる。弾むように迫り来る、黄色の、飛べない鳥のサイズにたじろぐ。クチバシでがいこつを砕くことなど、あっさりやってのけそうだった。

「止まれ!」

 後退しながら繰り返す。キリエも車から降りてきて、おれの後ろに回り込む。

「ばっかみたい!」

 女の子はののしりながらチョコボを巧みに操って近づいてくる。さらに後退したかったが、キリエの手前、しくこらえる。

「ばかって言う人がばか」

 キリエ、その切り返しはどうだろう。

「ねえ、そんなことより、せいこんの薬ができたってホントなの?」

「え?」

 おれは思わず銃口を下げる。

「そうそう。いきなり銃を向けるなんてダメ。荒野のルールは守りましょう。で、星痕の薬、できたの? うわさで聞いたんだけど」

「正確には星痕の痛みを抑える薬だ。治るわけじゃない」

 おれは気まずさを隠しながら答える。

「どこで買えるの?」

「まだ出回っていない。WROが配ると思う」

「配るって、ただってこと!?

「たぶんね」

「すっごーい! 教えてくれてありがと!」

 女の子はうれしそうに礼を言い、車から離れて行った──と思ったら、また戻って来る。

「お兄さん! マシンガンの安全装置、外さないとね! うう、恥ずかしい〜」

 そしてケタケタと笑い、今度こそ本当に去って行った。

「あの子、何者?」

 キリエがつぶやく。しかし、もう何者かを知る術はない。この世界には、おれたちの知らない営みがたくさんあるのだ。ミッドガルやスラム、エッジの生活は、世界のほんの一部に過ぎない。

「試してみよう」

 おれはマシンガンを調べる。銃の引き金近くに、本体に貼り付けたような小さな金属プレートがあった。他にあるのはマガジン脱着用のボタンだけなので、安全装置はこれだろうと指でスライドさせる。カチリと音がした。そして銃を構え、引き金を引く。タタタと渇いた音がして、火花が散った。二人で、おお、と声をあげた。反動でひどく肩が痛むことや、撃った弾と同じ数だけやっきょうが飛び出すことを初めて知った。

「荒野のルールってなんだろうね」

 助手席に座ったキリエが言った。

「ルールその一は、たぶん、いきなり銃を向けないってことだろうな」

「悔しいね、知らないのか? って笑われるの」

「うん」

 スラムへ来た頃は毎日のように言われていたことを思い出す。

「──ごめんね」

 キリエも思い出したらしい。

「いいんだ。悔しいと思うことが沢山あった方が、強くなれる」──と思う。実体験ではない。悔しさは、おれをただの嘘つきにした。


*  *


 もうすぐ夜が明ける。おれはヘッドライトを消して車を走らせていた。

「キリエ、寝た方がいいよ。昼前くらいに代わってくれ」

「──努力するかぁ」

 弱々しい声で言い、後部座席へ移ろうとする。運転席と助手席の間の狭い空間を通り抜けるつもりらしい。上半身は難なく通ったがお尻がシートに挟まる。おれの真横でキリエの脚がジタバタと動く。やがて身体を斜めにして、彼女は目的を達成する。

「じゃあ、おやすみ」

「はいよ」


 眠れなさそうなことを言っていたわりには、キリエはすぐに落ちたらしい。おれは時折その姿をルームミラーで眺めながら車を走らせた。彼女が一緒に来てくれたことに心から感謝した。おれが孤独に耐えられる強い男だったら、足手まといに思ったかもしれない。しかし、おれは、孤独にはあきれるほど耐性が低い。ミッドガルで母を待って過ごした数日を思い出す。いや、さらに昔にも似たようなことがあった。突然、記憶がよみがえった。ずっと子供の頃、心臓の手術を受けた直後だ。母が過労で倒れて、数日間、おれはひとりきりだった。病院だから看護師や医者はいた。しかし、彼らは苦痛をもたらす存在でしかなかった。守ってくれるのは母だけだ。その母の不在を嘆き、終始ぐずぐず泣いていた。そのくせ、看護師にその姿を見られるのが悔しくて、人の気配がすると毛布を頭にかぶって息をひそめることにしていた。


「この子、頭も悪いんですって。お母さん、それ聞いて倒れちゃったって」

「しっ。患者の前でそんな話をしないで」


 なんだろう、この記憶は。寝たふりをしている間に、看護師が交わした会話だろう。しかし、どういう意味だ。母が倒れた? あれは過労ではなかったのか。おれはブレーキを強く踏んだ。

「どうしたの?」

 キリエが眠そうな声で言った。

「いや──」

「わっ、すごい! これを見せたかったの?」

 騒ぐ理由がわからなかった。振り返ると、彼女は窓に張り付いて外を見ていた。キリエの視線の先には草原が広がっていた。そして、数十メートル先に、大きな池があった。泉? 湖? その区別がわからない。エッジの中央広場ほどのそれが、朝の光をキラキラと反射していた。これほど大量の水を見るのは始めてだった。その圧倒的な風景は、車を止めた本当の理由を遠くへ押しやってくれた。

「行ってみる?」

 キリエは返事を待たずに車を降り、草原を駆け出した。なだらかな傾斜が続いていて、ぎわまで問題なく行けそうだった。キリエが突然立ち止まり、振り返る。

「ねえ、マシンガンを持ってくる? 用心用心」

「ああ、そうだな」

 車を降り、後部座席のドアを開けるとマシンガンを取り出した。すると、助手席の後ろに、ピストルが落ちていることに気づく。物騒な車だ。拾おうとして車内に身体を突っ込み、ついでに、ショルダーバッグとキリエのバックパックも取り出した。ピストルをおれのバッグに入れ、水際まで運ぶことにした。一応、貴重品だ。

「エヴァン!」

 キリエの弾んだ声が呼んでいる。見ると、水辺にしゃがみ込んで、水面に手を突っ込んでいる。

「すごい! 怖いくらい透明!」

 そして立ち上がると、おれに向って走ってきた。

「着替えてくるね。声かけるまで、車の方見ないで」

「え?」

「いいから行って。魚も見えるよ」

「ああ」

 キリエの意図が理解できないまま、おれは水辺に向って歩いた。やがて、なだらかに下る草原が水の下に潜り込み、草が透明な水の中で揺れる波打ち際。小さな魚が草をつつきながら泳いでいるのが見えた。映像でしか知らなかった光景。それが手を伸ばせば届く場所にあるという現実。おれはマシンガンを置き、キリエを真似て手を水面にっ込む。ひんやりとして心地良い。

「行くぞ!」

 突然背後で声が聞こえたかと思うと、オレンジの水着を着たキリエが派手な水しぶきを上げながら池に駆け込んで行った。水辺から離れるほど深くなっているらしく、キリエの身体がどんどん水に沈んでいく。やがて胸が隠れるほどの場所に行き、振り返る。

「早く!」

「おれはいいよ」

「魚取って、食べよう!」

 そう言うと、彼女はすいめんに顔を近づけ、中を覗き込む。

「いるよ──結構大きいのがいる──」

 魚の生態なんてまったく知らないが、おれたちに捕まるようなやつがいるとは思えなかった。

「水着なんか用意していない」

「そのままでいいんじゃない? 上だけ脱いでさ。ほら、身体も洗える!」キリエは左腕を伸ばすと、右手でごしごしとこすり始めた。

「ノリが悪い!」

 キリエが笑いながら言った。おれは、仕方ないなと呟きながら上半身裸になる。キリエは魚を追いかけている。ノリが悪い──キリエ、レズリー、ファビオのこの言葉に挑発され、おれは何度恥をかいたことか。しかし、今は、無理をしてでも、楽しみたい。

「行くぞ、キリエ!」

「おう!」


  33 ルード、狙われる


 ミッドガル八番街。倉庫の中でルードは二号機の修理をしていた。ヘリの腹の下にきゅうくつな姿勢でもぐり込み、分解、修理を終えたスターター用のモーターを、本来あるべき場所に組み込んでいた。作業を続けながらも倉庫の入り口に気を配る。扉は、人ひとりが通れる程度に開けてある。ツォンたちとの会話を何者かに盗み聞きされていた。その何者かが、いつか行動を起こすはずだとルードは考えていた。わざとすきを作っておびき寄せ、捕まえるつもりだった。

 ガチャという金属がふれあう音がした。来たな、とルードは神経を集中させる。倉庫の入り口付近に金属のジャンクパーツをばらまいておいたのだ。しかし、何も起こらなかった。やるならさっさと動け。ルードは作業の手を止めると、ヘリから離れて大きく伸びをした。そして静かに扉へと歩く。人の気配はない。そのまま外へ出ると、サングラス越しに、午前の日差しに照らされているはずの倉庫街を見た。顔を動かさず、目だけで周囲を探る。すると、右手の方で人が動く気配がした。放物線を描いて、何かが飛んでくるのがわかった。ルードは、その正体を瞬時に見破る。工事に使うつつじょうばくだんどうせんには火がついている。一瞬、身体が固まる。爆弾は少し先の地面にあたり、何度かバウンドして足下に転がってきた。ルードは息を止め、素早く拾うと元の場所に投げ返した。

「うわっ」

 悲痛な声が聞こえた直後に爆発が起こった。ふんじんが激しく飛び散り、周囲は煙で満たされる。

「どこのバカだ」

 つぶやくと、ルードは爆心に近づいた。男がふたり、うつぶせに倒れていた。膝をつくと、小柄な男の肩をつかんで仰向けにした。男は驚きと恐怖を顔に貼り付けたまま、息絶えていた。ねずみのような顔をしていた。その顔は記憶にあったが、名前は知らなかった。もうひとりの男を確認しようと近づいた時、足下で、バリっという音がした。眼鏡を踏みつけたようだ。男の脇にひざまずき、横に曲げた顔を見たが、記憶になかった。戻り、眼鏡を拾って顔に当てると──

「ああ」

 この男にはせいこんの弟がいたはずだ、とルードは思い出す。


*  *


 レノは、ボランティアたちに指示を出すドイルの姿を眺めていた。ドイルが参加してから作業は大いにはかどり、れいはほとんど完成と言ってもよい状態になってきた。現場監督はあの男にまかせて、自分は後日チェックをする程度でいいかもしれないとレノは考える。ジェノバそうさくプロジェクトの話を聞いて以来、工事にはまったく身が入らなくなっていた。

「なあ、ドイル先生」

 レノは年長のドイルを、敬意を込めてそう呼んでいた。

「先生はやめてくれないか」

 苦笑いをしながらドイルが首を振る。

「あんたよ、こんな仕事してたのか? ずいぶん慣れてるよな」

「都市整備部にいた」

「なんだよ、しんの同僚かよ!」

 ドイルは視線をボランティアたちに送りながら、さあ、とあいまいな返事をした。

「チッ、汚れ仕事と一緒にするなってか?」

 タークスから距離を置こうとする部署は少なくなかった。

「まあ、最近は見直しているよ」ドイルはレノを見据える。「あんたたちがしていることは、悪いことじゃない」

 レノは思わず目をそらす。仲間以外からのこうていは、居心地が悪い。

「薬と、この慰霊碑が第一歩だ。見てろ。すぐってわけにはいかないけど、神羅は復活するぞ。いや、復活させてみせる」

 このところ、ばくぜんと考えていることだったが、部外者に話すのは初めてだった。

「何をする気だ?」

 ドイルがまゆをひそめる。不用意に口に出したことをレノは後悔する。

「そりゃ言えねえ」

「だろうな。しかし、社長に伝えておけ。もう誰も暴力には屈しないとな」

「覚えていれば伝えるけどよ、なあ、ドイル先生。社長の居場所──いや、生きてることも誰にも言うなよ。まだ体調が万全じゃない。未だに恨んでいる奴もいるから、面倒は避けたいんだ」

「言ったら、どうする」

「タークスの仕事が増える」

 ドイルが鼻で笑う。その時、レノの携帯電話が鳴った。

「話があるから待っててくれ」レノは言い、電話に出る。「よう、相棒。ヘリはどうだ?」

 ドイルが自分に注目していることに気付き、背を向ける。

「なんだって!?

 電話の向こうのルードの話は、すぐには理解できなかった。

「ちょっとこっちで調べるぞ、と」

 レノは電話を切ると元神羅の男を見つめる。

「なあ、先生。今日はキーオがいないけど──どした? それから、ファビオは?」

「──何があったんだ?」

「ふたりとも、死んだぞ、と」


  34 赤い獣と黒い水


 予想通り、おれたちに捕まるような魚はいなかった。おまけに、ふたりとも泳げなかった。泳げない人間が水の中でできることはほとんどない。水を掛け合ってじゃれ合うと、あとは何もなかった。

「水着なんて、どうして?」

「コスタ・デル・ソルに寄るかも、ってね。似合ってる?」

 キリエは両手を腰にあて、ポーズを取った。水がキリエのへそを洗う。おれは視線を上げる。腹、胸、顔、空。どこを見ればいいんだ?

「かーわいい」

 キリエは両手で派手な水しぶきをあげながら沖へ向って歩き出した。白い背中とオレンジの対比がまぶしい。最高に似合っている、とおれは呟く。コスタ、コスタと、キリエが口ずさむコマーシャルソングが聞こえる。音程が怪しいが、それもまた良し。

「ね、エヴァン、帰りでいいから──」キリエが振り返る。

 顔から笑顔が消えていた。そしておれの後ろを指さす。慌てて振り向くと真っ赤なモンスターがいた。車の様子をうかがいながらゆっくりと近づいている。向こうもおれたちに気づいているらしい。

「エヴァン、銃は?」

 ほとんど悲鳴だった。モンスターを刺激しないように、ゆっくりと岸辺へ戻ろうとした。そいつ──真っ赤な、巨大な犬、いや、おおかみ、もしかしたら。尻尾の先が燃えている──は、おれを見ていた。目をそらさず岸辺へあがり、衣類の上に置いたマシンガンの側にしゃがみ込んだ。手を伸ばし、手探りで安全装置を外す。モンスターは車の影に隠れようとする。マシンガンを構え、引き金を絞る。タタタタタタと渇いた音がした。車の後方で着弾を示す白煙が上がる。

「待ってよ」

 誰かの声が聞こえたような気がした。引き金を離し、様子を窺う。

「やった?」

 背後からキリエの声がした。するとモンスターが車の屋根の上に姿を現した。

「降りろ!」

 おれは叫びながら引き金を絞る。モンスターが口を開く。鋭い牙が見えた。その口に弾丸を送り込もうと銃口を移動させた時、標的は屋根からトランクの上に移った。その姿を銃口で追いかけると──ガスガスガスと銃弾が車の後部に吸い込まれていった。マズイと思った直後、車が一瞬地面から持ち上がり、炎と黒煙が勢いよくき出す。同時に、爆音と熱波がおれをおそった。燃料タンクか、トランクに入れっぱなしの燃料の缶を撃ち抜いてしまったのだ。世界一の間抜けとはおれのことだ。

「エヴァン!」

 キリエが悲痛をあげた。しかし、おれは燃える車から目をそらせない。

「エヴァン、助けて!」

 助けて? 振り返ると、キリエが水面から顔を出そうと必死にもがいている。いつの間にそんな深みに?

「底がない!」

 わけがわからない。おれはマシンガンを放り投げると池の中に戻った。ふくらはぎ、膝、腰、水深とともに抵抗が増す。負けないように身体を前に倒して走る。しかし、キリエとの距離はまったく縮まらない。それどころか、どんどん離れて行くように思えた。離れていく?

「キリエ!」

「エヴァ──」

 おれを呼ぶ声が途中で消え、彼女は水の中に沈んだ。波紋が黒く染まる。黒く? キリエの姿が見えない。近づこうと前へ進む。黒い水がおれの方にもただよってくる。水深はもうギリギリだ。水が口、鼻に入ってきた。思い切って水中に潜り、キリエを求めて目を開く。しっこくの世界。恐ろしくなり、顔を出す。こんな状況だというのに空は青く、雲は流れる。

 人は簡単に死ぬ。本当にあっけなく。たとえそれがキリエでも。

「キリエは死んでない!」

 頭をよぎったろくでもない決め付けを振り払い、もう一度水に潜った。何かがおれの横を通る気配がした。驚いて水面に顔を出す。

「陸に戻んなよ」

 それが赤いモンスターの声だと理解するのにずいぶん時間がかかった。


  35 レノとルード、飛ぶ


 ヘリはエッジ上空を離れ、南西に位置するアンダージュノンを目指していた。

「飛べ飛べ!」

「声がデカい」

 正操縦席のルードが、副操縦席のレノに文句をつけた。レノはインカムを通して会話をする時でも、ヘリのごうおんに負けまいと大声を出す癖があった。もう直らないのだと思ってはいたが、ルードは、その素人くさい振る舞いを指摘せずにはいられなかった。

「それで、ドイルはなんだって?」

 ルードが訊いた。

「ほら、主任たちと会っただろ? ヘリの倉庫でよ。あん時、盗み聞きしてたのが先生だ。おれらが何か悪さをするつもりだと思って後をつけたんだと」

「それが、どうしてああなる」

「あの倉庫にヘリがあるってことをファビオに話したらしい。あとの事は、先生、知らないらしい。たぶん、本当だ」

「ファビオの目的は?」

「スロップによるとだな──スロップの野郎、ああ見えて元は軍のへいたんでな。ヘリの操縦も朝飯前だと。で、それを知っていたファビオは、スロップに操縦を依頼した。エヴァンのためにヘリを飛ばして欲しいって」

「またエヴァンか。あいつはどう関係しているんだ?」

「それを確かめに行くんだろ?」


*  *


 かつて、アンダージュノンは豊かな漁村だった。名称も「ジュノン」であり、アンダーというくつじょくてきかんむりがついたのは、村をおおうように建造されたようさいジュノンが完成してからだった。この鋼鉄の都市の影響で魚は採れなくなり、村はすい退たいの道を辿る。やがてはいそん寸前まで追い込まれたが、二年前に状況が変わった。メテオ騒動と前後してしんカンパニーがほうかいし、同時に、こうエネルギーも供給されなくなった。その結果、豊富なエネルギーを背景に発達した空のこうつうもうが事実上壊滅したのだ。アンダージュノンの人々は、それを好機として、かいせんぎょうを始めた。海を渡りたいと考える人々は多く、村人たちのもくは見事に当たった。アンダージュノンは、旅人が落とす金で、かつてない賑わいと発展を遂げていた。そのアンダージュノンに最近オープンしたコスタ・デル・ソル風のビーチハウスに、ツォンとイリーナはいた。午後の、生ぬるい潮風がテラス席のふたりにまとわりつく。

「次は誰が来るんですか?」

 麦わら帽に白いワンピースという、リゾート風の着こなしのイリーナが言った。

「さあ」

 答えたツォンは、三つぞろいのスーツでビジネスマンを装っている。タークスという素性を隠すことには成功していたが、ふたりの組み合わせは、目立つことこのうえなかった。

「また、さっきみたいな報告ですよ。だって、ジェノバ──」ツォンにひとにらみされ、イリーナは目を伏せる。「すいません。でも、アレを見つけるなんて、無理だと思うんです」

「確かに個人の力では難しいかもしれない。しかし、可能性はゼロではない。加えて、定期的に連絡を取り合い、顔を合わせることは、組織の維持には必要なことだ」

「協力してくれる──」イリーナは周囲を窺ってから声を潜め「元タークスって何人くらいいるんですか?」

 ツォンは、かつての部下たちの顔を思い浮かべる。そのうち連絡がついたのは──

「何かあったようだな」

 ツォンは思考を中断し、イリーナに注意をうながした。村の入り口あたりから怒声が聞こえる。好奇心を刺激された客と従業員たちが店を飛び出していく。

「見てこい」

 了解です、と言って席を立った部下の後ろ姿にツォンは苦笑する。軽やかなワンピースのすそから見える脚が傷だらけだった。タークスになった者は生涯タークスとして過ごすしかない。一度は他の道を求めた者でさえ電話一本で動き始める。残酷なことをしているのかもしれない、と、ツォンはため息をついた。


 やがてイリーナが戻ってきた。

おぼれた若い女が運ばれてきたみたいです。それで、ツォンさん。運んで来たのは真っ赤なデカい犬みたいな奴で、尻尾が燃えて──」

「レッド〓か?」

「ですよね。事情を説明した上に、助けてやってくれってしゃべったらしいです」

「間違いないな。わたしも見に行く」

「もういないですよ」

「女だ」

「だったら、診療所です。村の奥の方に──」

「場所ならわかる」

 ツォンは席を立つと店を出て診療所へ向かった。頭上のジュノンを支える頑強な鉄柱の脇に、その診療所はあった。比較的最近塗り替えられたらしい白い木造の建物は、洒落じゃれたカフェのようだ。ドアを開くとすぐに待合室があった。今は誰もいないが二十人は入れるだろう。受付に声をかけようとして、ツォンは女に気づいた。座り心地の良さそうなソファが四脚あり、そのうちのひとつに、女は寝かされていた。オレンジの水着を着た若い女。けんしわを寄せ、苦しそうな顔をしていた。ボムのイラストが描かれた皮のジャケットが床に落ちている。ツォンはジャケットを拾い、女の身体にかけてやりながら、改めて顔をよく見る。知っている顔だった。ヒーリンの爆発騒ぎの時、ロッジの外にいた女だ。名前はキリエ。社長の腹違いの弟であるエヴァンの連れだ。

「ツォン? ツォンなのか? いやあ、久しぶりだな。調子はどうだ?」

 声に振り返ると、白衣の医者がいた。かつて、軍医長として、多くの兵士の命を救った男。ツォン自身も命を落としかけた時に世話になったことがある。六十に近い年齢のはずだが、ウェイトトレーニングで鍛えているらしい身体が医師をねんれいしょうにしていた。

「おかげさまで、ユージン先生」

「だろうな。わたしはいつでもかんぺきだ。ところで、この娘は知り合いか?」

 ツォンは首を横に振り、こたえた。

「そうか。じゃあ、本人が意識を取り戻すのを待つしかないな」

「何があったんだ?」

「外傷はない。ただの、溺れた娘。それだけだ」

「赤い怪物が運んできたとか?」

「ふん。怪物だなどと。レッド〓。知っているだろう? 科学部門の連中のおもちゃ。今はすっかり野生化しているらしい」

「そいつはどこへ?」

「知るか」

 吐き捨てるように言った医師に別れを告げ、外に出た。科学部門がそうであったように、しんが抱えていた医師団も、一流の人材で構成されていた。しかし、頭一つ抜けた、超一流と呼ばれる連中は、なぜこうも人格破綻者が多いのだろうか。ツォンは苦笑した。


 店に戻ったツォンは、イリーナの前に座り、腕を組む。

「どうでした?」

「今から評価する」

 いったいどういうことだ? 水着姿から明らかなように、キリエはどこかで泳いでいた。そしておぼれ、レッド〓が助けた。レッドが居合わせたのは偶然だろうか。キリエとレッドに繋がりはあるのだろうか。キリエはエヴァン・タウンゼントと繋がっている。エヴァンは社長の異母兄弟だ。エヴァンとレッド〓は繋がっているのだろうか? レッド〓はまだクラウドたちと繋がっているのだろうか。クラウドとエヴァンはどうだ。社長の弟が、かつての敵対勢力と交流があるとすれば、それは自分たちにどのような影響があるのか。一方、全てが偶然だということも考えられる。誰もが互いの素性を知らず、ただ知り合った場合だ。しかし、ツォンは経験から、偶然が幾つも重なれば大きな意味を持つことを学んでいた。無視してはいけない。ジェノバを探そうという時になって、このような繋がりが発覚する意味は何か。ジェノバを探す我々と同じ場所にキリエが運び込まれた意味は?


*  *


 レノが電話をしている横でルードは燃え尽きたエヴァンの車を調べていた。

「銃で撃ったらしいな」そして池を見る。にごった水が淀んでいた。「水辺にマシンガンがあった。あそこから撃ったんだろう」

「なんで車撃つんだよ、と。それにマシンガンなんかどこで──ああ、主任。おれだ。ヘリでエヴァンを追っかけて来たんだけどな──」


*  *


「エヴァンを追ってきたとは?」

 そう言ったツォンのけんにできたしわにイリーナは気づいた。滅多なことでは表情を変えない上司の、この様子。これは大事件が起こったに違いないと耳を澄まし、電話から漏れるレノの声を聞き取ろうとした。ファビオが死んだ──車が爆発──

「わかった。おまえたちもこっちへ来い。途中、エヴァンを見つけたら拾ってくるんだ」

 ツォンは電話を切るとイリーナを見つめる。

「はい?」

「他にも服を持っているか?」

「ヘリに戻れば、こんな感じのがもう一着あります」

「提供してくれ。三十分後、ヘリで」


*  *


 ツォンは、レノの報告について考えながら歩いた。ファビオ──ヒーリンから薬を盗み出した男と、その仲間がヘリを盗もうとして死んだ。事のほったんはエヴァンにあるらしい。再び診療所のドアを開ける。しかし待合室にキリエの姿はなかった。

「先生」

 ツォンは奥の診察室に声をかける。おっくうそうに医者が現れる。両手にダンベルを持ち、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。

「さっきの女はどこだ」

「いない? チッ、逃げられたか。治療費を取りっぱぐれた。ま、あの格好じゃ無一文か」

「どんな治療をしたんだ?」

「主に、しょくしんだな」

 医師が肩を揺らして下卑た声で笑う。ツォンはポケットからマネークリップを取り出し、ソファの上に放り投げた。

「これで足りるか」

「ほう。しかし、なんだって知り合いでもない娘の治療費を?」

「気に入った。それは治療費と口止め料だ。この件はごんように」

「まあ、うまくやんな」

 ツォンは無視して、外に出る。戸口から周囲を見回すが、キリエの姿は見えない。歩き出そうとした時、裏手から声が聞こえてきた。

「今まで、どうしていたの?」

 女の声が聞こえてきた。キリエだろうか?

「あちこち──彷徨さまよってたよ」

 若い男の声が答える。ツォンは気配を消しながら声のする診療所の裏手に回り込んだ。ふたりに姿を見られない──ツォンからも見えない──位置まで来ると壁に背中を押しつけて耳を澄ます。

「あの火事で──死んじゃったと思ってた」

「悪人は死なないのさ」

「──わたし、もう足を洗ったから、早死にするかも」

「エヴァンって奴のせい?」

「せいじゃなくて、おかげ。ねえ、どうしてエヴァンのこと知ってるの?」

「キリエのことなら、なんでも知ってる」

 やはりキリエだ。では、男は誰だ? 顔を見ておかなくてはならない。建物の角を曲がり、ツォンはふたりに自分の姿をさらす。水着の上にジャケットをり、診療所のスリッパをいたキリエがこちらを見ていた。げんそうな顔だ。隣には、銀髪の、線の細い少年が立っていた。ツォンは、血があわつような感覚を覚える。少年の容姿は、かつてしんカンパニーが生み出してしまった怪物を思い出させた。共通点は銀髪だけではないかと思い直したが、人の内面を見透かすような目の力は、やはりあの男を思い出させる。一度は英雄と呼ばれた男。この世界を滅ぼそうとした男、セフィロス。気の触れたセフィロスとたいした記憶がよみがえる。切り刻まれ、命を落としかけたのだ。気を抜くと震えてしまいそうなしっしながら、ツォンは少年を見返す。

「誰?」

 少年がキリエに聞いた。

「知らない──あっ! ヒーリンにいた人!」

 ツォンはうなずく。すると少年が右手を差し出しながら近づいてきた。まだ新しそうな、革製の黒いライダーススーツがきしむ音がした。

「ぼくはカダージュ。キリエの古い知り合いだ。よろしく」

 差し出された右手を見つめ、ツォンは自分の右手を差し出す。少年はゆっくりとその手を握る。ツォンの全身をかんつらぬいた。慌てて手を引く。これは人ではない、とツォンは確信する。

「会えてうれしいよ」

 少年は口のゆがめて言った。

「タークスのツォンだね」

 まだ名乗ってはいない。にもかかわらず、少年は知っていた。キリエがげんな顔で少年を見た。

「じゃあ、また。キリエ、この人とは、あまり仲良くしない方がいいよ」

 少年があと退ずさりする。と同時に、キリエが白目をき、意識を失う。倒れるキリエを支えようと一歩踏み出した時──ツォンの視界が暗転した。


*  *


 ルードは、荒野にできたいくにも重なる車輪の跡を見下ろしながらヘリを飛ばした。アンダージュノンへの最短距離ではなかったが、エヴァンが移動していたとすれば、おそらく道から離れてはない。アレはそういう奴だ、とレノが断言し、ルードも納得していた。やがて──

「おい、レノ」

「ん? おおっ!」

 眼下の荒野にエヴァンが立ち、ヘリを見上げていた。ルードは、自分がしんそこホッとしていることに気がつく。

「気に入らん」

 エヴァンはいつものショルダーバッグをたすき掛けにした上に、バックパックを背負っていた。首にはひもで繋げた二足のブーツをぶら下げている。ルードは一度エヴァンを追い越してからせんかいし、高度を落とす。エヴァンがよたよたと逃げ始めた。

「どうして逃げるかねえ」

「後ろめたいんだろうよ」

 ルードはエヴァンを追い詰めるようにヘリを降下させた。

「なあ、相棒」

 レノが低い声で言った。

「ファビオがヘリを盗もうとした。その理由によっちゃあ、エヴァン、やばいな」


*  *


 倒れた時に地面に打ち付けたらしい側頭部が痛む。つまり、意識を失っていたのは、ごく短い時間だ。ツォンは立ち上がり、周囲を見回す。カダージュと名乗った少年の姿はなかった。まだ倒れているキリエの側に膝をつき、頬を軽く張る。

「キリエ、大丈夫か?」

 キリエはうっすらと目を開き、ツォンを確認すると慌てて立ち上がる。

「部下がエヴァンを保護した」

 嘘だった。しかし、問題ではない。優先すべきはこの娘を確保しておくことだ。キリエの顔に一瞬、あんが浮かぶ。しかし、すぐに表情をかたくする。

「これからわたしはヘリへ戻る。エヴァンも来るが、どうする?」

「もちろん、行くでしょ」

 ツォンはうなずき、村の出口に向かって歩き出す。背後から、キリエの足音が聞こえる。

「わたし、どうして倒れたんだろう」

「さあ。おぼれた影響ではないのか?」

 自分も意識を無くしたことは黙っていた。

「そんなことあるのかな? そもそもわたし──どうやってここまで来たのかな。溺れて、気を失って──」

「さあな。わたしは偶然居合わせただけだ。詳しいことはエヴァンに聞くといい。ところで、あの、カダージュとは何者だ」

「知り合い」

 詳しいことを話す気はないらしい。

「本人なのか?」

 なんとしても確認すべきことだと考えていた。

「どういう意味?」

「会話が聞こえた。焼け死んだと思っていた、と言っていたようだが」

「もちろん本人。丸い鼻とオレンジの髪。カダージュのトレードマーク。見たでしょ?」

 キリエの説明は、ツォンの手を握った少年とはまったく違っていた。それはか。自分はカダージュを知らないからだ。あれは、キリエの脳に影響を与え、本当は死んでいるはずのカダージュという少年を再現した。そんな能力を持つ存在を、ツォンは、ひとつしか思いつかなかった。

「オレンジの髪?」

「うん。あの色に染めるの、結構大変なんだよね」

 振り返り、キリエの表情を見ようとした。キリエは村の方を眺めながら歩いている。ツォンが立ち止まっていることに気づかず、ぶつかった。

「あっ」

 ツォンは、気まずそうに離れようとするキリエの両肩をつかむ。

「あの、カダージュを名乗った少年は──」ツォンは告げる。「人間ではない。怪物だ」

 告げるべきかいなか。確信はなかった。しかし、この娘の信頼を得る必要があった。タークスに対するぞんしんを植え付けなくてはならない。

「そんな話──バカみたい」

「信じないのも無理はない。しかし、今後、奴のせっしょくがあった場合は用心した方がいい。あいつは、おまえをコントロールしようとするだろう。そのような事例が、過去にもあった」


 かつて死者はよみがえり、その代わりに多くの生者の命が失われたことがある。ジェノバの仕業だ。ツォンは、昔、しんカンパニーの科学部門を仕切っていたほうじょう博士から聞いた話を思い返していた。

『記録によるとだな、ジェノバはその昔、世界を滅ぼしかけた。その方法は実にこうみょうだ。まず、だましたい相手の、大切な人間の姿になって近づく。親兄弟、友人知人、いろいろだ。時には死者の姿をとる場合もあった。ジェノバにはそういう力があったのだ。そして、対象に取り入り、従わせるわけだな。誰かがおまえを恨んでいる。誰かがおまえを殺したがっている。いろいろ吹き込めば人はもうしんあんかたまりだ。いつしか争いが始まる。そう、自滅だ』

 宝条博士はジェノバと最も長く接していた人間だった。最後には気が触れたと思われていたが、もしかしたら、ジェノバに幻惑されて、自滅したのかもしれない。いったい博士はどんな幻を見たのだろうか。天才ではあるが狂った価値観を持った男にも大切な相手がいたのだろうか。


「君たちは我々が守る。心配しなくていい」

「どうして?」

「君はエヴァンの友人だ。エヴァンは、我々にとっての重要人物。聞いただろう?」

「ううん」

 ツォンは、エヴァンとルーファウス神羅の関係を話して聞かせる。

「──というわけだ。我々はエヴァンを守る。もちろん、君も」

 そう言ってから、ツォンは、自分のやり方も、ジェノバと同じではないかと思った。


*  *


「あの人もタークス?」

 ヘリに寄りかかっていたイリーナの姿が目に入ると、キリエが言った。

「イリーナだ。きみの服を用意している」

「ファビオを痛めつけた奴?」

「そうだ。しかし、あの件はこれ以上し返さないでほしい。もう終わったことだ」

 そう簡単にはいかないとキリエは呟き、小走りでツォンを追い抜くと、イリーナ目指して走り出した。

「よくもファビオをやったな!」

 キリエはイリーナの顔に人差し指を突きつける。

「言いがかりはやめて。あいつが死んだのはわたしのせいじゃない」

 イリーナはキリエの指を払いのけながら反論する。

「──誰が死んだの?」

 イリーナは、しまったと首をすくめてツォンを見る。ツォンは首を横に振りながらふたりに近づく。

「ファビオが? 嘘!? 嘘!」キリエがをこねる子供のように身体を硬くする。「わかった! あんたたちがやったんだ!」

「心外だな。我々は──」言い終わらないうちにキリエが殴りかかってくる。ツォンはその細い腕をつかんで、強く握る。

「我々はエヴァンが悲しむようなことはしない。言っただろう?」

 キリエの唇は震えていた。返事はなかった。

「あ。そうそう。エヴァンがもうすぐここに来るよ。先輩から連絡があったから」

「着替えって、どこ?」

 キリエがやっと口を開く。ツォンには、キリエが、一連の体験と情報を、どう処理したのか、まったく理解できなかった。若い娘のコントロールは難しい。部下のイリーナですら、時々、わからなくなる。エヴァンをうまく利用するしかない。ふたりを活用して、我々はジェノバを手に入れる。ツォンは腹を固めた。


 ヘリから離れたツォンは、携帯電話を手に取り、暗記している一連の番号を打ち込んだ。メモリーには登録しないよう、部下たちにも命じていた。相手はすぐに出た。

「ジェノバは意外と近いかもしれません」

 ツォンが告げると、相手──ルーファウスしんは、ただ、わかったと応えた。

「キリエという娘を覚えていますか? ──ええ、そうです。キリエは死んだはずの知り合いと会ったと言っています」

 ただそれだけの説明でルーファウスには通じた。

「はい。けてみる価値はあると思います。ただ、エヴァンとキリエを危険にさらすことになると思いますが──」

 わたしに断る必要はない、というのがルーファウスの答えだった。そして、奇妙な縁だなと短く笑った。


  36 タークスはやはり怖かった


 ヘリが迫ってきた時に逃げたのは、正体不明のヘリの接近に身の危険を感じたからそうしただけで、深い意味はなかった。だからヘリに乗り込んだ時には素直に礼を言ったし、こんなことになった事の次第もていねいに説明した。機内に入り込む爆音に負けないように話すのは大変だった。

「キリエな、アンダージュノンで保護されたってよ」

 おれの説明にはなんのコメントもせず、レノが言った。

「良かった──あれ? アンダージュノンにもタークスの仲間がいるのかな?」

 しかし、レノとルードは何も答えなかった。その後も黙ったままだった。重苦しい空気。その原因を探るつもりで何度か会話を試みたが、ルードに黙れと命令され、それきりになった。おれの家に押し入ってきた時の二人に戻っていた。

 ルードが窓の外を指さして、レノをうながした。赤毛が地上をのぞき込む。おれも下を見る。すると、あいつがいた。ナナキは、先端が燃える尾を力強く伸ばして走っていた。やがて、ヘリの直下で止まり、こっちを見上げる。

「ちょっと降ろしてくれないかな。あいつ、おれを助けに戻ったんだと思う。もういいって伝えなくちゃ」

 しかし、おれの頼みは無視され、ヘリは飛び続けた。


 ナナキはキリエの、いや、おれたちの命の恩人だ。水中で慌てるだけのおれを下がらせると、溺れたキリエを引き揚げ、水際まで運んでくれた。人工呼吸の方法を知らないおれの代わりに、キリエにまたがり、前足で胸を押した。ほどなく、キリエは盛大に水を吐き出し、息を吹き返した。しかし、すぐにまた気を失ってしまった。

「なんだか変だね。あの水──」ナナキが水面に視線を移す。見ると、透明だったはずの水面の、あちこちに、黒い染みが漂っていた。「なんか、イヤな感じだったよね?」

「そうかも──しれない」

「もう大丈夫だと思うけど、念のためにアンダージュノンへ連れて行こうよ。あそこには医者がいるはずだから」

 おれは返事もせずに、相手を見ていた。するとナナキは全身を震わせ、かくするようなうなり声をあげた。獣そのものの声だった。

「オイラはナナキ。こういう生き物なんだ。説明のしようがないから、さっさと受け入れてよ。人間をおそう習性もないし、食べたりもしない。さあ、動いて。ほら、オイラの背中にこの人を」

「はい」

 おれは、ぐったりしたままのキリエを、指示に従ってナナキの背中に乗せた。うつ伏せで、両手足をダラリと下げた彼女のあられもない姿に胸が痛んだ。

「走ると落としてしまうから時間がかかるよ。でも、たぶん、君よりずっと速いと思う。人を寄越すか、オイラが迎えに来るかするから、少しでも、アンダージュノンに近づいて」

「ちょっと待って」

 脱いで地面に放ってあったおれのジャケットをキリエの背中にかけて、そでを脇腹のあたりで結んだ。思ったとおり、彼女の下半身がすっぽりと隠れた。

「じゃあ、行くよ」

「キリエをたのむ」

 ナナキは首を大きく振ると、慎重な足取りで歩き出し、やがてスピードを上げた。かなり離れてから立ち止まり、振り返った。

「電話、持ってるかなと思ったんだ。最初にちゃんと言えば良かったな。ごめん」

 申し訳なさそうな声だった。


 ナナキは犬か猫のように腰を下ろして首を巡らせ、ヘリを見ていた。

「ごめん。ありがとう。ナナキは悪くない。荒野のルールを忘れたおれのせいだ」

 おれは窓に顔を押しつけて、胸の中で語りかけた。


 やがて、テレビで見たことのある、鋼鉄の巨大なようさいが見えてきた。ジュノンだ。しんビルと似たシルエットの構造物だけが共通点で、それ以外はまさに要塞。今もなお、西方からの敵をにらみ付けているように見えた。あの下にアンダージュノンがあるのだろうか。やがてヘリは、ジュノンから少しずれた方向へ進路を変えた。小さな入り江が見えてきた。ヘリが停まっていて、その横で白いワンピースに皮のジャケットを羽織った女の子が手を振っている。キリエだった。胸が締め付けられるような気がした。無事で良かった。


「エヴァン!」

 ヘリから降りると、待ち構えていたキリエが駆け寄ってきた。そして、おれの腰に両手を回す。

「ごめん、バカだった」

 キリエの背中に手を回し、抱き寄せる。

「そんなこと、いい」

 おれの胸のあたりからくぐもった声が聞こえた。

「良かった──」

 冒険のおわり。そんな予感がした。母のことはもういい。キリエがいればそれでいい。これ以上何を望む? この気持ちを伝えたい。しかし、それは言葉ではなく──見ると、タークスたちは、ヘリの近くに集まって何か話していた。誰もこっちを見ていない。今なら、大丈夫。

「キリエ──」

 おれは意を決し、声をかける。

「エヴァン──逃げよう。一、二、三で走る」

「え?」

「ファビオが死んじゃったって。きっと、あの中の誰かがやった」

「え!?

「あんな奴らと、いたくない。だから、逃げよう?」

「うん」

 キリエが伸び上がり、おれの頬に軽くキスをした。

「一、二、三!」

 おれたちは駆け出した。いや、キリエが駆け出し、おれは引っ張られているだけだった。背後から、女の、止まれという声。撃つぞという警告。すぐに渇いた銃声が響き、おれは左の肩を強く押された気がした。と同時に、身体が勝手に回転して倒れた。倒れてから、肩を撃たれたのだと理解した。なんという激痛。その痛みはおれの歴史になかったものだった。キリエが泣きそうな顔をしておれを抱きしめ、何度も名前を呼んだ。撃ったのはあの女──イリーナらしい。レノが後輩を怒鳴る声が聞こえた。


 ルードの肩にかつがれてアンダージュノンの診療所に運び込まれた。何故かニヤニヤとうれしそうな医者に麻酔をかけられるまで、おれは痛みに耐えるしかなかった。いや、実際のところは耐えられず、苦痛を訴え、涙さえ流した。そんなおれをキリエは励まし続けてくれた。もう彼女はおれのどんな情けない姿を見ても失望したりはしないのだろう。そう思えることがせめてもの救いだ。そんなことを考えながら眠りに落ちた。その後、何度か目覚め、眠り、目覚め──時間の感覚が全くなかった。

 今、おれは目を覚ましている。しかし、真っ暗闇。何も見えない。近くに、人の気配がした。

「誰?」

「おれだよ。ファビオ。エヴァンが大変だって聞いて、飛んできたんだ」

「飛んで?」

「それくらい、急いだってこと。肩を撃たれたって?」

「うん」

「どれどれ」

 肩のあたりを押された気配がして、すぐに、肩、続いて全身が燃えるように熱くなった。

「ファビオ、何をしている?」

 何かが割れる音や、金属がきしむ音がして、突然、肩が軽くなった。

「なーんにも。なあ、エヴァン。とにかく、無事で良かったよ」

「ああ、ありがとう」

 そしておれは思い出した。

「ファビオ、死んだって聞いたぞ。キリエが言ってた」

 突然、周囲が明るくなった。おれは目をゆっくりと開く。目を開く? つまり、今まで閉じていたのか? 金属のバーやレールが頭上にあり、その向こうに真っ白い天井が見えた。あかりがこうこうと輝いていた。このあたりの電気はどうなっているのだろう。そんなことをぼんやり考えながら、首をひねってファビオの姿を探す。

「ファビオ?」

 しかし、返事はない。姿も見えない。夢だったのだろうか。だとしたら、生々しい夢だ。半信半疑のままベッドから降り、狭い病室から出た。おれは全裸の上に、短いローブのようなものを着せられていた。なんという無防備な格好。病室に戻り、服を探した。ベッドの周辺に、見慣れないものが落ちていた。とうの、よろいのようなものが、幾つかの破片になっていた。相当な長さの包帯が、蛇の抜けがらのように、クシャクシャになって捨てられていた。視線を移すと、床にカゴがあり、おれの衣類が入っていた。その中から、まず下着を探そうとした時、左腕が普通に動くことに気がついた。痛みも違和感もない。あの、ニヤニヤした医者の、手術のおかげだろうか。だとしたら素晴らしい。手早く着替え、最後にボムのジャケットを着ると、また病室を出た。狭い廊下があり、その奥にドアがある。ドレイク先生の診療所のようだと思った時、ドアが開いてキリエが出て来た。見慣れたライダースジャケットとショートパンツ。そしてブーツ。燃えた車の周辺から掻き集めて運んできたものだ。ワンピース姿も良かったが、やはりキリエは、こうでなくては。

「エヴァン!? 何してるの? ギプスは?」

 おれは、床に転がっていた鎧が、ギプスだったことに気づいた。

「もう、いいみたい」

 本当だった。おれは左肩をぐるぐる回して見せた。

「いいはずない! 五時間も手術したの。手術してからまだ二日。それに──」

 キリエが言いにくそうに目を伏せた。

「それに?」

「元のように動かないかもしれないって」

 肩が元どおりにならないかもしれない。うまくイメージできなかった。だって、ほら──

「全然痛くないけどな」

 また肩を回しながら笑った。

「薬のおかげかな──とにかく、ベッドへ戻ろうよ。動かしちゃダメ」

 キリエにうながされて病室に戻りながらおれは言った。

「今、ファビオがいた」

「え?」

「夢かもしれないけど」

 病室のベッドに、おれは座った。キリエは右隣に座りながら首をふる。

「ファビオ、死んじゃったって。キーオと一緒に、爆弾で遊んでいたんじゃないかって」

「誰が言ったんだ?」

「レノ」

「そんな嘘を言う必要ないもんな。じゃあ、やっぱり──」

「嘘だったらいいのに」

 キリエの声、そして身体が震え始めた。おれは右手を伸ばし、キリエを抱き寄せた。ファビオはいったい何をしていたのだろう。キーオと爆弾で遊んでいた? 何故そんなことを? そして、ファビオとビッツ、兄弟の固い決意を思い出した。しんの社長を殺してやる──爆弾は、その準備だったのだろうか。それ以外に、キーオはともかく、ファビオが爆弾に近づく理由はないように思えた。いや、理由なんてどうでもいい。ファビオは、死んだ。

「ビッツ、どうしてるかな?」

 キリエが言った。

「エッジへ戻ろうか」

「ニブルヘイムは? お母さんの行方、探さないの?」

「またそのうちチャンスはくるよ。生きていれば」

 生きていれば。ファビオには、もう、何もチャンスはないのだ。ファビオの、緑色の服や、眼鏡、人を油断させる小太りの体型。しかし、見た目とは裏腹の、おれの百倍はわった根性を思い出す。目の奥が熱くなり、鼻水がたまってきた。すすると、その反動で涙が流れ落ちた。キリエがおれにしがみついて、泣いた。


  37 愛されるしん


 病室のドアの外で息をひそめ、ふたりの会話を聞いていたレノは、ツォンが待機している待合室へ戻った。

「あいつら、ファビオの目的を知らないらしい。おれがでっちあげた話を、そのまんま信じてる」

「確かか?」

「泣いてるし。キリエはともかく、エヴァンは演技なんてできねえだろ」

「エヴァンのために。ファビオがそう言っていたという情報は、どう評価する?」

「そりゃわかんねえ。でも、その話のでどころはスロップだろ? 信じていいのか──」

 レノは首を横に振ってからソファの、ツォンの隣に座った。

「スロップの野郎から、後でじっくり聞くとして、なあ、主任。相談なんだけどよ──」

「なんだ」

「あいつ、行方不明のお袋さんを探してニブルヘイムへ行くつもりだったんだ。さっき、もうあきらめるって話をしてたんだけどよ──ヘリでひとっ飛び、連れてってもいいか?」

「ほう──ニブルヘイムか」

「ヘリなら結構近いだろ?」

「よし、いいだろう」

「さすが主任! 話がわかるぞ、と」

「ただし、わたしとイリーナが連れて行く」

「どうしてだよ」

「愛される神羅もいいだろうが──められる神羅などあり得ない」

「おれがめられてるってのか?」

「さあ。ただ、肩入れしすぎる。良くないちょうこうだ」

「だって、社長の弟だろうがよ」

 ツォンはその言葉を聞き、事務的に事を進めようと決めた。情に厚いこの部下を説き伏せるのは簡単なことではない。

「ルードと一緒に、わたしたちの仕事を引き継いでもらおう。ここに残り、仲間たちの報告を聞け」

「そりゃいいけど──」

「旧交を温めるのも悪くはない」

「主任、エヴァンたちのこと、頼むぞ」

 ツォンは何も答えず、診療所から出た。


  38 提案


 おれたちはいつのまにか並んで眠っていた。壁に掛けられた時計を見ると、まだ朝早い時間だった。それほど眠っていたわけでもないらしい。起き上がり、肩に意識を集中した。まったくと言っていいほど痛みはなかった。痛み止めのような薬が効いているのだろうか。とにかく、ありがたかった。ほっとしてキリエを見ると、穏やかな寝顔をしていた。

「ああ、寝過ごした」医者が言い訳をしながら入って来て、おれを見る。そして目をいた。「なんだおまえ、ギプスはどうした。いや、どうしてベッドから離れている? 固定具は?」

 医者の視線を追うと、ベッドの、ちょうど頭の上あたりから支柱が三本飛び出していて、その先には、床に水平に伸びるアームがそうちゃくされていた。まるでクレーンだ。かっしゃに、切れたワイヤーが巻き付いていた。どうやら、ギプスだけではなく、おれは本来、ベッドに完全に固定されていたらしい。ギプスもそうだが、自分で外したわけではない。それは断言できる。

「痛みは? 気を失うくらいのはずだ」

 黙っているおれにしびれを切らしたらしい医者が言った。

「いや、全然痛くないですよ」

「そんなバカな話があるか。いや、薬か? そろそろ切れるはずだが──」

「本当なんです」

 おれは左肩をぐるぐる回してみせた。

「おまえの肩は砕けている」医者は首を振りながら、こんわくして言った。「ワイヤーだのボルト、プレートで繋ぎ合わせたが状態はあまり良くはない。簡単には治らんはずだ。くそっ。徹底的に調べてやる。何が起こった。いいか、そこにジッとしてろよ」

 きょうはくするように告げると医者は部屋を出て行った。そして入れ替わりにイリーナが入ってくる。

「おはよう。なんか、元気に動き回ってるって聞いたけど──」

 おれの目を見ずに行った。

「ああ、撃ってごめん」

 嫌々言っているのがわかった。

「でも、全然痛くないんでしょ? あの医者、肩が砕けたなんて言ってさ。手術だって、ほんとは簡単だったのを引き延ばしたんじゃない? ま、とにかく良かった。ほら、その子、早く起こしてよ。出発するから」

「出発って──どこへ?」

「ニブルヘイムへ行くんでしょ? 動けるなら、さっさと行こうよ」

「どうしてタークスが一緒に行くんだ?」

「おびだよ。撃っちゃったから。でも、逃げようとしたのが悪いんだからね」

 今度はいどむように言った。これが本音なのだろう。

「あれはもういいんだ。もし問題なければ、ここで別れよう」

「エヴァン、やっぱり行こう?」

 少し前から目を覚ましていたらしいキリエが言った。

「外で待ってるから。さっさと話しつけて」

 イリーナが部屋を出て行った。

「おれはもういい」

「うん、わかってる。わたしが行きたいの」

「どうして?」

「グールド・アールド」

 キリエの口から出たのはすっかり忘れていた名前だった。

「そうだったな」

「ミレイユたんていしゃ、最後の仕事だもの。ちゃんとやってみない? お母さんのことはエヴァンが好きに決めればいい。わたしは従うから」

 な話をしているはずなのに、おれは思わずき出してしまう。

「何?」

「従う? キリエが?」

「ご不満?」

 口をとがらせる。おれのお気に入りの表情だった。以前にも増して、問題や不安には事欠かない。事態の進展にも戸惑うばかり。でも、キリエがいる。彼女がおれのクイーン。喜びも悲しみも、キリエが見ていてくれる。

「ニヤニヤしてる──エヴァン、なんだか変」

 おれにも不思議だった。このこうようかん。幸福感。どこから来たのだろう。

「薬のせいかな。やけに、楽しい」


  39 ニブルヘイム


 イリーナが操縦するヘリでおれたちはニブルヘイムへ向かっていた。ツォンは、おれたちと向かい合って後部座席に座っている。

「肩はどうだ? 医者は検査の準備を進めていたが──」

「全然。問題無し」

「薬は大量にある。いつでも言ってくれ。しかし──本当に痛まないのか?」

「みんなに訊かれるけど、本当だから仕方がない」

「すでに死んでいるのではないか?」

 真っ直ぐにおれを見てツォンは言った。隣のキリエが全身を固くするのがわかった。

「どういう意味だろう」

「もちろん、冗談だ」

「趣味悪い」

 キリエが吐き捨てるように言った。

 やがて、不気味な山が見えてきた。ひたすら険しく、寒々しい。おれは驚く。ミレイユ探偵社の壁に貼ってあった絵の風景だった。

「キリエ、あの山!」

 キリエがおれに重なるようにして窓際に顔を寄せると、あっ、と驚きの声をあげた。

「ニブル山だ」

 ツォンが言った。

こうがある。魔晄が豊富なのでふもとの村──ニブルヘイムには我々の研究施設もあった」

「なんの研究?」

「説明しかねる」

「秘密なんだ」

「わたしも全てを知っているわけではない」そしてツォンはおれの顔を見る。「アネット・タウンゼントの名は研究関係者リストになかった。非公式に参加した可能性、我々がそれを知らない可能性もゼロではない。しかし、ある問題が起こり、あの村については詳細な調査が行われている。きみの母親が研究の関係者である可能性は低い」

「へえ」

 おれはわざと気のない返事をした。

「アネット・タウンゼントが関係しているとしたら──その後のことだ」

「あと?」

「十年近く前、この村で事件が起こった。それをいんぺいするために、我々は村を再建し、にゅうしょくしゃを募り、何事もなかったようにつくろった」

「そっちの名簿はないの?」

「ない。タークスは直接関与していないからな」

「問題とか、事件には関与してたんだ」

「答える気は無い」

 きっと、どっぷり関係者なのだろう。

「ツォンさん、降りますよ」

 イリーナの声をきっかけにおれたちはまた下を見た。ニブルヘイムの村だ。ドイル村に似ていると思った。もちろん、何倍も大きいが、円形の広場があり、その周囲に家が建ち並んでいる構造は同じだ。広場には、古ぼけたきゅうすいとう。ただそれだけの小さな村だった。いや。場違いに立派な、石造りの屋敷があった。集合写真の背景になっていた建物だ。あれが神羅の研究施設だろうか。神羅の研究──ドレイク先生のところで見たミイラの写真。なんとなく、繋がっているような気がした。

「あ」

「ん?」

 この村で生まれ育ったティファを思い出していた。二年前に行った時には、村の住人は知らない人ばかりだったと言っていた。事件、いんぺいこうさく、入植者。ああ。母は、きっと入植者だったのだ。

 ヘリは給水塔を目指して下降していく。騒音を聞きつけた人たちが家から出てきて空を見上げている。その中に母の顔を探した。もういないのだろうと、何度も思い、ニブルヘイム訪問など止めてしまおうとまで思ったのに、真剣に探していた。


*  *


 ヘリから降りた、おれ、キリエ、そしてツォンを村人たちは遠巻きに見ていた。誰も近づいて来ようとはしなかった。ざっと観察すると、彼らは何組かの家族に見えた。小さな子供たちの姿もあった。集合写真にあった顔を探そうと思ったが、母とグールド・アールド以外の顔は覚えていなかった。

「こんにちは!」

 キリエが小さな女の子に声をかけた。すると女の子は慌てて家に入ってしまった。

「何者だ!」

 怒鳴り声が聞こえた。声の主を探すと、顔の下半分を髭でおおった男がおれたちをにらみ付けていた。手には大型の銃を持っている。

「みんな中に入ってろ。おれが相手をする」

 男の指示で村人たちはそれぞれの家に戻った。

「それで? あんたたちは?」

「グールド・アールド!?

 キリエが驚く。すると、男の顔にも驚きが浮かぶ。その顔は──最初は、ひげでわからなかったが、確かにグールド・アールドだった。

「こんにちは、グールド・アールドさん」

 キリエがグールド・アールドに歩み寄り、おれとツォンも続く。

「待て! 髪の長いあんた。あんたはタークスだろう? そこにいてくれ。面倒は避けたい」

 後ろで立ち止まる気配がしたので振り返ると、ツォンは、手の甲で行けとうながした。


 グールド・アールドが案内してくれたのはかつて宿屋だったらしい建物の一室だった。今は彼の私室なのだろう。生活用品の少なさはおれの部屋と同等だが、壁には銃やナイフなどが所狭しと飾られていた。

「おれはここの警備担当でね。まあ、モンスターとか──他にもな。たまに問題が起こる」

 壁の物騒な道具を見つめているおれに対する言い訳らしい。

「ここにはどんな人たちが住んでいるんですか?」

 キリエが親しげに訊いた。

「そりゃあ、ここが気に入った連中さ。勝手に住みついているから、少々後ろめたい。けいかいしんは強いが、打ち解ければいたって普通の連中だ。なあ、どうしておれを知ってるんだ?」

 言いながら、グールド・アールドは部屋の隅のあんらくに腰を下ろした。おれたちがすわる場所はない。

「わたしたちはミレイユ探偵社の調査員です。エッジから来ました」

「エッジ?」

「ミッドガルの隣にできた新しい街です」

「へえ。まあ、話には聞いていたけどな。そんな名前なんだ」

「グールド・アールドさん。わたしたちはお父さんの依頼であなたを探しにきました」

 グールド・アールドはポカンとしてキリエの話を聞いていた。

「お父さんって──タイラン・アールドのことを言ってるのか?」

「はい」

「タイランがおれを探してる? わけわかんねえな」

「どういう意味ですか?」

「本当のおやじは、おれがガキの頃、ウータイの戦争で死んだんだ。タイランは母親の再婚相手さ。おれはタイランを父親だなんて思ったことは一度もない。向こうも同じじゃないか? おれはどうやって家を出るかってことばかり考えて、そして結局神羅に入って──」

「ソルジャーに?」

「ああ。家を出られるならなんでも良かった。おれの反対を押し切って一緒に暮らしはじめたお袋も気に入らなかったしな。お袋が生きてるうちはまだ付き合いがあったけどよ、死んじまったから、あの家とは縁が切れたと思ってたんだ。なんであいつがおれを──ああ、老後の面倒を見させようってわけか!」

「そういう感じじゃなかったですけど。ただ、寂しそうでした」

 キリエが依頼人をかばう。

「ふん、どうだか」

 グールド・アールドはかたくなだった。

「この件はタイランさんに報告しますけど、いいですか?」

「勝手にしてくれ。仕事なんだろ?」

 そして、これで終わりというように両手を広げてみせた。

「行こう、キリエ」

 キリエは非難するようにおれを見た。そして首を振る。従う気はないらしい。

「もう一人、探している人がいるんです」

 おれの中で、ある感情が急速にふくらんでくるのがわかった。その名は、恐怖。次の瞬間には、母の生死がわかってしまうのだ。二年、連絡がなかった。覚悟はしている。しかし、それを聞くのは相当辛いだろう。母は死んだと誰かに言う度に感じていたチクリとした痛みの比ではなさそうだ。おれは衝撃に備えて身体を硬くした。

「アネット・タウンゼント」キリエが言った。「この、エヴァンの、お母さんなんです」

 グールド・アールドは口を半分開いたままおれを見た。

「アネットさんの──息子。エヴァン・タウンゼント?」

「はい」

「じゃあ、ニックス・フォーリーは元気か?」

「は? いいえ、亡くなりました」

「連絡がないから──やっぱりそうだったのか。ニックスは、あの、ライフストリームが吹き荒れた日──わかるよな?」

「はい」

「ここはライフストリームの通り道になって、結構被害が出たんだ。死人も出た。ニックスが、会社に指示を仰ごうと連絡したら、自分たちで処理しろと言われたらしい。あっちはあっちで大変だったんだろうが、まあ、ひどい話だ」

 グールド・アールドは髭をボリボリときむしった。

「そして、あいつは、ああ、たいした奴だよ。ここの連中の消息を家族に知らせるためにミッドガルへ戻ったんだ。ボロいバイクでだぞ? よっぽど責任を感じていたんだな。仕事とはいえ、入植者を募ったのはあいつだ。真面目な、いい奴だった。ひとりひとりの事情を聞いて、便べんを図ってな。ええと、ん? 待てよ。あんたも知ってるんだよな、ニックスのことは」

「おれは一度しか会ったことがないんです」

「一度? じゃあ、よっぽど強烈な印象を残したんだな、あんたは」

「どういうことですか?」

「アネットさんの息子に好かれないと、彼女に受け入れてもらえないって真剣に悩んでたぞ。おれの見たところ、あれは完璧な片思いってやつだな。いい歳した男がよ」

 ニックス・フォーリーは、やはり母のことが好きだった。おれの直感は正しかった。しかし、母は受け入れたわけではなかった。そこをおれは誤解した。初対面の時の、自信たっぷりに見えた笑顔を思い出す。あれは、彼の、精一杯の笑顔だったのではないだろうか。おれと会うことに緊張していたニックス・フォーリー。自分が母にふさわしい男に見えるようにと願った、一世一代の笑顔。突然、彼が、親しい友人のように思えた。

「それで、アネットさんは?」

「え?」おれは、グールド・アールドの質問の意味がわからなかった。なぜおれに訊く。

「アネットさんは、ここには一週間もいなかった。仕事で、村を出て行って──そっちに戻っていないのか?」

「はい」

「そうか──」

 グールド・アールドが寂しげな目でおれを見た。

「エヴァンのお母さんも入植者のひとりだったんですよね?」

 黙っているおれの代わりにキリエが聞いた。

「ああ。そういうことも、知らないんだな。まあ、家族でさえ、何も知らされていないのは契約のせいだ。誰も入植地がここだとは知らされていなかったし、ばくだいほうしゅうは口止め料込みだった」

「莫大な報酬──ですか?」

「アネットさんも金が必要だと言ってたぞ。半金は先に支払われたはずだ」

 天井裏にあった金の出所が、やっとわかった。

「あの、グールドさん」キリエが言った。「ここの人たちに聞けばもっとわかりますか? エヴァンのお母さんのこと」

「いや、無理だ。ここの連中は、あの日以降にここに住みついた連中だ。それ以前の入植者はほとんど──ライフストリームにやられた」

「その時、母はすでに、ここにいなかったんですよね?」

「ああ。実は、この村には当時、神羅の実験だか、研究の犠牲者が何人か住んでいてな、アネットさんは、その世話を担当していた。そうだ、ちょっと待ってくれ」

 グールド・アールドは立ち上がるとベッドサイドのテーブルへ行き、しゃがみ込んだ。テーブルの下には小さな金庫があった。金庫のダイヤルを手慣れた様子で回し、ふたを開く。そして中から一通の封書を取りだし、表書きを確認した。

「メテオのかなり後になって、アネットさんから届いた。ニックスてだが──もう、いないからな。あんたが持ってな」

 差し出された封筒を、おれは受け取ることができなかった。母の遺書のような気がしたからだ。グールド・アールドが不思議そうにおれを見ていた。横からキリエが手を伸ばし、受け取った。

「アネットさんとは短い付き合いだったが、本当に優しい、いい人だった。おれも無事を祈ってる」

「ありがとう」

「もしかしたら、まだ、アイシクルロッジにいるのかもな」

「どういう意味ですか?」

「ほら、手紙。差出人の居場所は、アイシクルロッジだろ?」

 うながされて封筒を見ると、確かに、母の字で、そう記されていた。

「あんまり役に立てなくて、悪かったな」

「いいえ」

 グールド・アールドが、また両腕を広げた。これで終わりらしい。もう、母について聞けることはないのだろう。おれたちは部屋を出て行こうとした。

「なあ、タイランは寂しそうだったって?」

「そう見えました」キリエが応えた。「あの──さっきのお話のニックスさんと、同じ気持ちなんじゃないでしょうか?」

「あ?」

 グールド・アールドがけんしわを寄せる。おれも、キリエが言ったことが理解できなかった。

「グールドさんに受け入れてもらえないと、本当の家族にはなれない」

「おれのお袋は、もう死んだ」

「それでも、あきらめていないのでは? ずっと心残りだったのでは?」

「──ふん」

 髭だらけの顔が動揺したように見えた。

「これ、タイランさんの連絡先です。置いていきますね」

 キリエは準備してあったらしい、小さくたたんだメモを渡した。この状況を予想していたわけだ。彼女には、かなわない。

「そういやあんたたち、何だってタークスなんかと一緒にいるんだ? 悪いことは言わない。手を切れ。ありゃ、過去の世界の亡霊みたいなもんだ」

 グールド・アールドは言ったが、心はどこか別のところにある──そんな感じだった。


 おれたちは給水塔の横にきゅうくつそうに停まっているヘリへ戻った。ツォンがドアを開き、迎えてくれた。

「アイシクルロッジへ」

 乗り込むなりキリエが告げた。ツォンがげんな顔でおれたちを見た。続きを待っているらしい。

「アイシクルロッジ」

 おれも繰り返す。

「イリーナ、飛べ」

 ツォンがあきらめたように言った。

「エヴァン、これ」

 キリエがグールド・アールドからもらった母の手紙を差し出す。おれは受け取り、ショルダーバッグに放り込んだ。

「あとで読むよ」

 ふと気になって、ニブルヘイムの集合写真を取りだして、眺めた。キリエが隣から覗き込む。裏返すと、おれの家の電話番号が記されている。この番号は、会社に見捨てられたから仕方なく書いたのではない。ニックス・フォーリーは、おれと一緒に探したかったのだ。おれたちの大好きなアネット・タウンゼントを。


  40 アンダージュノン


 レノとルードは退屈していた。上司に指示された通り、ビーチハウスに陣取って、かつての仲間たちが現れるのを待っていたが、未だ誰も来なかった。

「やっぱり無理だ」

「何がだ」

「ジェノバ情報なんて、そう簡単に手に入るかってんだ」

「そりゃそうだ」

「飛び回って、いずり回って探すのがタークスってもんだろ?」

「ああ」

「行っちゃうか?」

「あてはあるのか?」

「ないぞ、と」

「おい」

 村の入り口方向を見ていたルードがあごで指し示した先にはふたりの男がいた。せわしなく、周囲を見回している。誰かを探しているらしい。

「おーい」

 レノが手をあげ、声をかける。男──ドイルが気付き、早足でビーチハウスへ近づいてくる。

「レノ、ルード。ここで何をしている?」

「その前によ、紹介してくれよ。そっちの、タフそうなお兄さんは?」

「おれはレズリー。エヴァンとキリエの友人だ」

 ルードはレズリーと名乗った男の左手を見ていた。黒い皮の手袋でおおわれた手は、暴力の匂いを放っている。こいつは、素人ではないのかもしれない。

「ずいぶんあせってるみたいじゃねえか」

「エヴァンを探しに来たんだ。ああ、広場にあったトラックを借りたぞ」

 ドイルが答える。

「エヴァンはニブルヘイムへ行くと言っていたらしい」レズリーがルードを真っ直ぐ見つめながら言った。 「そのためにはここへ寄って海を越える必要がある。だからいるんじゃないかと思って──」

「エヴァンが、どうした」

「放っておくと、死んでしまうそうだ」

「なんだそれ!」

「あんたが殴ったからじゃないのか?」

 レズリーが詰め寄り、ドイルがそっと制した。

「なんだ──それ」

「ファビオは、死ぬ前の日──」ドイルが言った。「弟を連れて病院へ行った。その医者からエヴァンを大至急担当医に診せろと言われたらしい。そのために、ヘリでエヴァンを探そうとして──」

「そんな話、どっから仕入れた?」

「ファビオの弟だ」

 ドイルが答える。レズリーは黙ってレノとルードをにらんでいる。ルードはサングラス越しに、睨み返す。