「でもよ、そういうことなら普通に言えばいいじゃねえか。なんで爆弾投げるんだよ!」

「ファビオにとっちゃ、あんたたちは親のカタキだ」

 レズリーが告発するように言った。レノは黙るしかなかった。

「行くぞ」やりとりを聞いていたルードが立ち上がる。「エヴァンを追う」


  41 アイシクルロッジ 母の手紙


 アイシクルロッジは北の果ての、雪に埋もれた村だった。村へと続く下り坂の途中で、おれたちはこごえていた。皮のジャケットを羽織ったおれはまだいいが、キリエはそでしのジャケットにショートパンツだ。

「もっと近くで降ろしてくれればいいのに」

 キリエが歯を鳴らしながら言った。ツォンたちは十五分ほど離れた場所にヘリを停めて待っている。無用なトラブルを避けるためのなのだろう。携帯電話を渡され、適時連絡を取ることになっていた。

「わっ!」

 左側を歩いていたキリエが雪道に足を取られ、転びそうになった。慌てておれの左腕をつかむ。

「ごめん! 痛んだ?」

 相変わらず、痛みはなかった。念のために軽い薬をもらい、飲んでおいた。ツォンが持っていたケースには何種類もの薬が入っていて、効き目は多種多様らしい。どうしても耐えられない場合は気を失わせる薬もあると言っていた。そんなものの世話にはなりたくはない。

「こっち側歩こう」

 キリエはおれの右側に回り込んで、腕にしがみついた。

「いつもはキリエが前を歩いていたよな」

「うん。後ろ姿は美人だって言われてたからね。基本、早足」

 ある種、衝撃の事実だった。おれが遅れていたわけではなかったのだ。思わず、笑った。

「良かった。エヴァンが笑った」

「え?」

「ニブルヘイム出てからずっと深刻な顔してた」

「そうだったかな」

 それはそうだろう。追い求めた母に辿たどり着くかもしれないのだ。

 やがて坂道は終わり、何軒かのログハウスが見えた。

「ほら──あれがきっとツォンが言ってた宿屋だね」

 おれたちはアイシクル・インと記された小さな看板を出している建物を目指した。


 建物の中は暖房が効いて暑いくらいだった。入り口の真正面には小さな受付カウンターがあり、そのカウンターの右を通って客室に行くらしい。左手にはティファのセブンスヘブンほどの広さの食堂があり、客が三組、談笑していた。食堂の隅に売店があり、暖かそうなコートやもこもことしたジャケットが売られていた。

「わたし、売店見てくるからエヴァン、聞き込み、頑張って」

 おれの目を見つめ、キリエはうなずいた。おれもうなずき返し、正面の受付カウンターへ進む。中年の女がおれに向ってあいわらいを浮かべていた。

「ようこそ、アイシクル・インへ。ご予約は頂いていますか?」

「いや、実は、ちょっと聞きたいことがあって」

 相手の笑顔が若干割り引かれる。

「アネット・タウンゼントという人を知らないでしょうか? 二年前にここへ──この村へ来たはずなんです」

 女はうつむき、何か考えているようだった。やがて顔を上げると、最初と同じ笑顔が浮かんでいた。

「申し訳ありません。わたしは最近ここへ来たものですから。でも、かみなら何か知ってると思いますよ」

「女将さんに会えますか?」

あいにく、今日は休みを頂いていまして──明日になればごあいさつさせて頂けるかと──」

「そうですか──」

「ここでお待ちになってはいかがでしょうか? お安くしておきます」

「──じゃあ、そうします」

「ありがとうございます」

 女に言われるがままに宿泊手続きを取り、金を払った。売店にいるキリエのところへ行き事情を説明すると、彼女はげんそうな顔をした。

「まずかったかな」

「そんなことはないけど──」キリエはちらりとカウンターの女を見た。「とにかく部屋へ行こう?」

 気まずい。最初にキリエの意見を聞くべきだった。受付の横を通って廊下を進み、指定された三号室へと向かった。「三」と記されたドアの前に立つ。

「もう一部屋、空いてるかな。ちょっと訊いてくる」

「いいよ。狭かったら、考えよう」

 キリエがおれから鍵を奪い取り、ガチャガチャと音を立てながらかいじょうするとさっさと部屋へ入っていった。おれも後に続く。部屋は懐かしの我が家と変わらない広さだったが、大部分を大きなベッドが占領していた。狭いのか、広いのか、判断できなかった。キリエにまかせよう。そのキリエは、さっそくベッドに飛び乗り、思い切り両手足を伸ばした。

「うーん! 気持ちいい!」

 おれは無防備に投げ出された素敵な脚から視線をそらし、ベッドの端に座った。キリエは身体をみぎひじで支えておれの方を見た。

「ねえエヴァン。宿の女将さんってどこに住んでいると思う? このあたり、他に人が住むところなんて無いよね」

 考えてみればその通りだ。

「部屋を借りる必要なんてなかったのか」

「そういうこと。あの人、なかなかやるね」

「面目ない」

「いいっていいって。このベッド気持ちいいし、それにほらシャワーもある!」

「うん」

「じゃあ、今日はゆっくりしちゃう?」

「ああ」

「そんなに落ち込まないで。あの人の方が一枚上手だった。それだけ」

 言いながらキリエはベッドから降りる。

「わたし、ツォンに連絡してくるね。あと、買い物。暖かいジャケットが欲しいの。その後、食堂でお茶を飲んでくるから、その間に──」

 そう。おれはグールド・アールドから受け取った、母の手紙を読まなくてはならない。

「わかった」

「一緒にいた方がいい?」

「いや、大丈夫」

「じゃあ、終わったら、呼びに来て」

「うん」

 キリエは軽やかな足取りで──たぶん努めて軽やかに、部屋を出て行った。残されたおれは、ここで一息ついたらまた先延ばしになってしまうと思い、バッグから封筒を取り出した。しっかりとのりけされた口を細くちぎり開封する。封筒を逆さにして振ると中から折りたたんだ二、三枚の紙と小さな紙片が出てきた。まず、紙片を手にとって見る。懐かしい母の字だった。メモの冒頭には『ニックス・フォーリーさんへ』と記されていた。

『こちらでの滞在が長引きそうなので契約書を送ります。もしわたしに何かあっても残金は確実にエヴァンに渡るように手配してください。前渡し金は自宅の、あの場所です。手術の件もお願いします。エヴァンは何も知らないので驚かせないように注意してください。例のお医者の名前はディミトリー先生というジュノンの軍医さんです。それではよろしくお願いします』

 おれは震える手でメモを置き、契約書なるものに目を通した。難しい言葉が並んでいたが、要約すると一年間ニブルヘイム住民として暮らし、そのことを口外しないと約束すれば金がもらえるという内容だった。最後に記された金額は常識外れの額だった。そして母の署名の上に書かれたもんごんにおれの目はくぎけになる。

『本契約内容及び勤務地で得たいかなる情報も口外しないことを誓います。違約が証明された場合は、命を持って償うことをここに誓約し、署名します』

 まず、冷静になろうとおれは洗面所へ行き、顔を洗った。無駄だった。母のメモによるとおれは手術を受けなくてはならないらしい。その費用をねんしゅつするために母はニブルヘイムに一年住む仕事を見つけ、命を差し出せというようなバカバカしい、しかし、脅迫的な内容の書類に署名した。全てはおれのためだったのだ。膝が震えた。


「この子、頭も悪いんですって。お母さん、それ聞いて倒れちゃったって」

「しっ。患者の前でそんな話をしないで」


 ベッドに戻り腰を下ろした。

「エヴァン?」心配そうなキリエの声だった。「待ってても全然来ないから──」

 顔を上げると、売店で買ったらしい赤いダウンジャケットを抱えたキリエがいた。彼女は驚きを顔に浮かべながら、近づいてきた。ジャケットをベッドに置き、おずおずと手を伸ばすと、おれを抱きしめた。

「泣かないで。わたしがついているから」

 ああ、おれはまた泣いているのか。


 どれほどの時間、キリエに抱きしめられていたのだろう。窓の外は雪のせいでぼんやりと明るい。しかし、すっかり日が暮れているのがわかった。ノックの音がした。

「はい」

 キリエが立ち上がり応えた。ドアの向こうからしわがれた声が聞こえてきた。

「ちょっと待ってください」キリエが戻ってきておれに訊く。「ここのかみさんが、話がしたいんだって」

「うん」

「じゃあ、入ってもらうね」

 キリエが戸口に向かって、どうぞと声をかけると、白髪をきつく結んだ、腰の曲がった老婆が入ってきた。

「こんにちは、お客さん。わたしは女将のウィンディと言います。アネット・タウンゼントさんのことで何か知りたいと聞いてきたのですけどね──」

「はい。おれは息子のエヴァンです」

「まあ、息子さん!」

 女将さんは意外な素早さでベッドまで来るといきなりおれの手を取り、言った。

「まあまあよく来なさったねえ。こんなところまで、たいしたもんだ。いやいや立派な息子さんだよ」

 まったく、そんなことはない。

「それで、手術はうまく行ったのかい?」

「いえ──」

 応えながらおれはキリエを見た。大切なことはみな他人の口からキリエに伝わる。彼女の口が手術と動くのが見えた。おれは黙ってうなずいた。

「母のことを聞かせて頂けますか?」

「もちろん──」女将さんは窓際に寄り、椅子に腰掛けて外を見た。「でも、わたしはアネットさんがこの村に来た時のことしか知らないんだよ」

「かまいません」

「あの頃、二年前は、このあたりは大変なことになっていてね──」


*  *


 ツォンとイリーナは冷え込むヘリの中にいた。毛布を身体に巻いてスピーカーから流れる声に耳を澄ましている。盗聴器はエヴァンのバッグの中だった。宿の女将が話題にした二年前、ツォンはジュノンの病院で死にかけていた。イリーナはあこがれのボスが殺されたと思い、ここまで犯人──結局誤解だったが──のクラウドたちを追って来ていた頃だ。ふたりはそれぞれの過去を振り返りながら老婆が語る、物語を聞いていた。

「この村の北側には雪原が広がっていてね、本当ならスキーやスノーボードを楽しむ人たちで賑わっているはずなんだけど、あの時はね、気味の悪い人たちがどこからか大勢集まってきて──みんな黒いフード付きの服を着て、ぶつぶつ呟きながらね」

ほうじょうの被験者たちだな」

 ツォンが呟く。

「ジェノバ細胞ですね」

「セフィロスの細胞も使ったらしい」

 しんカンパニーでは、宇宙から来たやくさいと形容されるジェノバの細胞を使った様々な実験が行われた。多くの場合は、細胞や組織をなんらかの形で人体に入れるという乱暴なものだった。しかも、社は全てを把握できていなかった。実験の詳細は独断でそれらを進めた宝条博士とともに失われてしまっていた。従って、宿の女将が目撃したのは具体的にどんな実験の被験者なのか知る手立てはない。しかし、直接、間接的に、体内にジェノバ細胞を注入された者たちが、何かに呼応するようにきただいくうどうを目指した事象は『リユニオン』として一部の関係者に知られていた。


*  *


「お母さんはその、黒い服の人たちの世話係だって言ってたよ。だから、みんなを連れ戻す必要があったらしいね。自分で乗り物やなんかを手配して、大変な思いをして来たらしい。でも、その時には、みんなはさらに北へ行ってしまった後だった。結局、諦めて、帰って行ったんだ。でも、二ヵ月くらいしてから、また戻ってきたんだよ。仕事をやり遂げないと、ってね。もう誰も見つかるはずはないって止めたんだけど、結局、行っちまったんだ。その後のことは──」

「戻っては来なかったんですね?」

「ああ」

「北には何があるんですか?」

「当時はただの雪原が広がっていて、その先は氷の壁さ。壁を登り切ると地の底へ続くような大穴が開いているらしいけど、わたしは見たことがないから、なんともいえないよ」

 おれは氷壁の向こうにあるという大穴をイメージした。地の底へ続くような穴。そこに母は落ちたのだろうか。まさか。母がそんなひょうへきを登れるはずはない。

「そこへは行けますか?」

「二年前にライフストリームが噴き出したときにあちこちにクレバスができてね。わかるかい、クレバス。地面の裂け目だよ。上に雪が積もって隠れているやつもある。まるで落とし穴さ。とっても危険な状態だから、そうだね、お勧めしないね。空から行けるなら別だけどね」


*  *


 スピーカーを通して聞こえるエヴァンたちの声にノイズが混じり、時折途絶えはじめた。

「エヴァン、行くつもりですかね?」イリーナは受信機のゲイン調整ダイアルを回しながら言った。「天気、荒れてきましたね」

 そして、音声が途絶えた。


*  *


「本当だろうな、と」

 レノはグールド・アールドと名乗った元ソルジャー、セカンドをにらみ付けていた。

「嘘をつく理由はない」

「てめえ──」

 レノが相手の胸ぐらをつかもうと伸ばした手を、ルードが制する。

「レノ、行くぞ」ルードが背を向け、ヘリに乗り込む。

「ちょ! 相棒!」

 レノは慌てて後を追う。ヘリに乗り込むと同時にアイドリング状態だったルーターが回転を増す。周囲にじんが巻き上がり、遠巻きに見ていた住人たちが顔をしかめ、そむける。

「ルードよう」

 ルードは構わずヘリを上昇させる。

「見ろ」

 うながされ、地上を見おろすと、きゅうすいとうの横に自分たちのとは別の、ヘリの着陸跡が残っていた。

「やっぱり来てたんじゃねえか」

「どういうことだ?」

 後部座席からドイルが口を挟む。

「おれたちは嫌われ者だからなあ」

 レノはため息をつくと無線機を手に取り、ツォンのヘリを呼び出した。しかし、返事はなかった。

「なんで出ないんだよ、と」


*  *


 ツォンとイリーナはアイシクル・インの四号室にいた。

「ここなら聞こえますね」とうちょうの受信装置を小さなテーブルの上に置いてイリーナが言った。隣室はすでにエヴァンとキリエのふたりだけになっていた。

「ジュノンへ行こう? ディミトリー先生を探さなくちゃ。お母さんのことは元気になってからでもいいと思わない?」

「うん。考えさせてくれ」

 隣室の会話がめいりょうに聞こえてくる。

「ツォンさん、ジュノンのディミトリーって医者、知ってます?」

「ああ。おまえも何度か会っている。アンダージュノンだ」

「もしかして、ユージン先生?」

「ああ。ユージン・ディミトリー」


  42 ファビオ


 キリエがシャワーを浴びる音が聞こえる。シャワールームから漏れてくる湯気が部屋を満たし、窓は水滴でくもっていた。おれはベッドに仰向けになって天井を眺めていた。お湯の音に混じって鼻歌が聞こえてきた。コスタ・デル・ソルのCMソングだった。キリエがおれを元気づけようと、明るく振る舞うのがカンにさわる。カンに障る? エヴァン。エヴァン・タウンゼント。おまえは最悪だ。さっさと為すべきことを。おまえの問題を解決し、キリエをコスタ・デル・ソルへ連れて行け。元の生活に戻してやれ。でも、どうやって? どこから手をつければいい?


*  *


「ツォンさん、いまのうちに眠ってください。わたしが監視してますから。こんな吹雪の、しかも夜中に動かないですよ、あいつら」

「いや、わたしが聞いていよう。先に休め」

「ツォンさんに寝顔見られちゃうのは恥ずかしいですよぉ」

 ツォンは部下の言葉を無視して窓辺に近づいた。窓ガラスが曇っていた。何気なく手でぬぐい、外をのぞいた。窓のすぐ外に、若い男がいた。ツォンは息を飲む。銀髪の少年はツォンを見据え、そして微笑んだ。少年は人差し指を口にあて、静かにと命じた。

「イリーナ、ちょっと出てくる。待機していろ」

「どこへ?」

「ヘリを見てくる」

 嘘を言った理由は自分でもわからなかった。


*  *


 最初は風の音かと思った。やがて誰かが外から窓を叩いたのだと気がついた。ツォンかイリーナだろう。こんな場所で、吹雪の夜に窓を叩きそうな知り合いはタークスくらいしかいない。おれは窓辺へ行き、曇ったガラスを手で拭って外を見た。ファビオがいた。おれは短く声をあげ、窓から一歩離れる。すると、窓が開き、ファビオが顔を覗かせた。

「ファビオ!?

「やあ、エヴァン。今、話せるか?」

 ファビオは、眼鏡をずらし、うわづかいにおれを見ていた。ファビオはそんなことをしただろうか?

「出てこいよ、エヴァン。話があるんだ。出てこないと、キリエを殺すぞ」

 なるほど。こいつはファビオではない。ファビオに見えるが、ファビオではない。では、何物だ? いや、なんだ? 全身を悪寒が走り、身体が震えた。

「エヴァン、誰かいるの?」

 シャワールームからキリエの声がした。

「そこで待ってろ。すぐに行く」

 おれは窓の外に応え、閉めた。震えは治まらなかった。

「キリエを殺すぞ」

 また声が聞こえたような気がした。このままジッとしていると、言葉通りのことが起こりそうな気がした。おれはボムのジャケットを着込み、その上にキリエが売店で二着買ってきた真っ赤な羽毛入りのジャケットを羽織る。バッグからルーファウスのピストルを取り出す。少し悩んだが、それをキリエのバックパックに突っ込む。他に武器になりそうなものはないかと探したが、何も無かった。覚悟を決めて部屋のドアを開けたときシャワールームからキリエが顔を覗かせた。

「エヴァン?」

「ちょっと飲み物買ってくる」

「わたしのも!」

 おれはわかったと応えて部屋を出た。廊下を歩きながら、外でおれを待っている奴のことを考える。たぶん、おれの手には負えない。銃があってもなくても同じ。なんの見通しもなかったが、そいつを少しでもキリエから引き離す以外に、せんたくがあるだろうか。


*  *


 ツォンは宿の壁に沿って移動し、銀髪の少年がいた場所を覗き込んだ。宿の裏側には雪が降り積もっていた。そこには誰の姿も見えず、足跡さえもなかった。


*  *


 イリーナは盗聴用の受信機をポケットに突っ込むと部屋を飛び出した。たった今隣の部屋から出たばかりのエヴァンの姿は見えなかった。警戒しながら受付の方へ進んだ。皮膚の表面がチリチリとあわ立つような不快な感覚は寒さのせいではなさそうだ、とイリーナは思った。


*  *


「こっちだ」

 おれは声に誘導されて村の奥へ歩いた。強い風のせいで、雪が真正面から吹き付ける。積もった雪も巻き上げているようで、視界はほとんど無かった。

「警備員小屋がある。もう少しだ」

 声はかなり近くで聞こえた。姿を確認しようとしたが相手は風上にいるらしく、雪がまともに顔に当たる。

「ほら、あそこ」

 前を見ると、確かに小さな建物があった。この村の、他の建物と同じ丸太作りの小屋だ。全身グリーンの人影がその小屋の前に立ち、ドアを開くのがわかった。雪に足を取られながら後を追う。そして中へ。

「ほら、ドアを閉めて」

「いや──」

 何が起こるにしても退路は確保しておきたかった。ドアを閉めない理由を探していると、勝手に閉まった。ドアが勝手に閉まった? さっそく、脚が震え始める。

「エヴァン。ちょっと見て欲しいものがあるんだ」

「おれも聞きたいことがある」

 声はかすれ、震えていたが、なんとか最後まで言い切った。

「おれが先だ。急いでるんだ」

 真っ暗な部屋の中で相手だけがぼんやりと光っていた。目か脳がどうにかしてしまったにちがいない。手術を要するほどの病気を頭に抱えているのだ。視覚に影響が出てもおかしくはない。

「これ、どこにいるんだ?」

 ファビオの姿をしたそいつが、おれの目の前に突きつけたのは不気味な写真だった。ドレイク先生のところで見た、たしか──

「そう、ジェノバ。ドレイク先生に聞いたんだけど、どこにいるのか知らないって言うんだ」

「そんなの、おれも知らない。先生のところで写真を見ただけ──」

 写真がずいぶん汚れていることに気づいた。黒いシミ──いや、茶褐色の、たぶん、血だ。

「血?」

「そう、ドレイク先生の血。ジェノバはしんビルの中にいたってことが先生の意識でわかったから、ビルへ行ってみたんだ。でも、なかった。だまされたと思って──」

「いったい何を言ってるんだ?」いや、こんな聞き方ではダメだ。「おまえは誰だ?」

「誰だろう。自分でもよくわからない。君は知らないかな?」

 暗闇の中、そいつは手を伸ばし、おれの左腕に触れた。

「──知らないようだな」

 突然目の前のファビオが一瞬、銀髪のきゃしゃな少年に見えた。しかし次の瞬間、白髪のドレイク先生が現れた。おれをあざ笑うように舌を出した。

「おまえがジェノバのことを知ってると思って喜んだのに。写真を見ただけだったとはね。医者も写真だけ。本物の居場所を知ってるのは誰だ?」

「おれは何も知らない」

「せっかく肩を治してやったのに。役立たずだな、君は」

 ドレイク先生の口から血が吐き出されたかと思うと、姿がぼやける。おれの目の前にいるのは怪物なのだ。おれの心を動かさずにはいられない人たちの姿を見せる怪物。そして怪物は母の姿になった。

「やめろ」

「エヴァン、あなたの肩が痛まないのは、わたしのおかげなのよ? でも、もう終わり」

 母の姿をした怪物が手を離すと、激痛が全身を貫いた。目がくらむほどの衝撃におれは悲鳴をあげた。


*  *


 小屋の前を通りかかったとき、風の音を切り裂くように悲鳴が聞こえてきた。ツォンは握りしめていた銃を構え、小屋のドアを開く。中はしっこくの闇。危険な何者かが潜んでいる気配に全身の皮膚があわ立つ。この感覚をツォンは知っていた。死の世界に限りなく近づいた時に感じたものだ。

「エヴァン?」

 ツォンはかんに耐え、闇の中に足を踏み入れる。床にエヴァンが倒れているのがわかった。生死を確認しようとしゃがみ込んだ時、背後から首筋をつかまれた。

「あんたは──」少年の声が背後から聞こえた。「エヴァンが、ジェノバの居場所を教えてくれると思ってるんだね」

 ツォンは振り返ろうとしたが、首筋を押さえる力はじんじょうではなかった。

「なぜだろう。エヴァンは何も知らないのに」

 何も考えまいとツォンは意識を集中する。首筋から何かが流れ込み、そして引き揚げられる不快な感触があった。

「え? ぼくがジェノバだと思っているのかい? それはちがう。ジェノバはぼくの母さんなんだ。ぼくは母さんを探しているんだよ」

 背後の怪物は自分の意識を読んでいる。これ以上情報を与えてはいけない。しかしツォンは、かつてジェノバを母と呼んだ男のことを思い出さずにはいられなかった。

「セフィロス? ああ、その名は知っている。ぼんやりと──ライフストリームで感じた──なんだか、嫌な奴だ」

「痛い──」エヴァンが呻き声を上げる。「ツォン、薬を。痛み止め──」

「なんだよ! 結局誰も知らないのか!」

 怪物が声を荒げるのと同時に首のいましめが消えた。ツォンは前のめりに、エヴァンの上に倒れ込む。エヴァンの絶叫が耳元で響いた。


*  *


 イリーナは、宿屋から続いていた、消えかけの足跡を頼りに小屋に辿たどり着き、ツォンとエヴァンを発見した。

「ツォンさん!」

「わたしは大丈夫だ。エヴァンに薬をやってくれ」

「はい」

 イリーナはしゃがみ込むとベルトのホルダーからガス式の注射器を取り出し、エヴァンの首筋に押しつける、こうのうしゅくポーションが体内に送り込まれる手応えがあった。

「何があったんですか?」

「このあたりには怪物がいる。ジェノバの特徴を持った怪物だ」


  43 怪物


「落ち着いたら部屋へ戻れ。我々は──捜索する」

 ツォンが言い、イリーナとともに小屋を出て行った。あの怪物の捜索をするのだろう。おれはイリーナの注射が痛みを和らげるのを感じながら床に倒れていた。薬の効果は素晴らしく、痛みはうずきと呼んでもいい程度には落ち着いていた。しかし、以前のような、まったく何も感じないという状態まで戻る気配はなかった。諦めて、なるべく肩に衝撃がいかないように立ち上がり、小屋を出た。振り返ると、部屋の中は何のへんてつも無い、小さな事務所だった。机と椅子が置いてある。壁には壁掛け式の電話機があった。ドレイク先生に連絡をしなくてはと思ったが、番号を覚えていなかった。先生はあの怪物に、血を流すほどに傷つけられたのだろうか。それはもちろんおれのせいだった。おれがジェノバの写真にいらぬ興味を持ち、覚えていたために、ドレイク先生はひどい目にあったのだ。おれは先生の無事を祈った。そして──

「キリエ!?

 焦り、転びそうになりながら宿へ戻った。


 宿へ戻ると受付で中年の男が居眠りをしていた。拍子抜けするほど平穏な光景だ。起こさないように足音を忍ばせて三号室へ行き、ドアの前に立った。中から声が聞こえる。おれはドアに耳を押しつけた。

「ねえ、耳の中見せてよ」

「どうして?」

「ホクロがあったら、カダージュだって信じる」

「どうぞ」

「どれどれ」

「どう?」

「カダージュ!」

「だろ?」

「うれしい──」

「嘘だね。キリエはずっとあいつのことばかり考えてる」

「それとこれとは全然別。懐かしい友、カダージュ。会えてうれしいに決まってるでしょ」

「あいつ、嫌いだな。殺してやりたいよ、エヴァンをさ」

「そんなこと──」

 銃声が響く。

「させない」

 ドアを開くとキリエがベッドに座っていた。右手に銃を持って、床に倒れている男を見おろしている。小屋の中で、一瞬見た、忘れられない顔。銀髪の少年は手足を身体に引き寄せるようにゆっくりと動いていた。

「撃つなんて──ひどいな──」

 キリエは少年に銃を向け、もう一発撃とうと構え直す。

「昔のオトコを撃つなんてさ──」

 キリエが引き金を引いた。宿に銃声が響き渡る。受付の方から足音が聞こえる。

「お客さん!」すぐに受付にいた男の姿が見えた。「何事ですか!?

「殺してやる」

 少年はそう言うと、人間離れしたスピードで立ち上がった。手には細く、鋭い剣を持っていた。剣は空中からとうとつに現れたように見えた。入り口で固まっていたおれは、やっと部屋へ飛び込むとキリエの手を引き、立たせた。少年はじゃあくとしか言い様のない笑みを浮かべている。

「キリエ、逃げよう」

 手を引いて、部屋を出る。受付の男はすぐ側まで来ていたがいちもくさんに駆け去った。おれたちも後を追うように廊下を駆け抜ける。角を曲がる時に振り返ると、少年が剣をぶら下げたまま歩いてくるのが見えた。背後に気を取られているキリエを引っ張って宿を出ると、おれは方向を見定めて、村の出口へ走った。すると先回りした、あの少年がいた。いや、あれは怪物なのだ。先回りなんて、面倒なことはしない。ただ、おれたちの前に現れる。逃げても無駄なのかもしれない。だからと言って、逃げないわけにはいかない。おれはきびすを返し、北側を目指す。アイシクル・インを通り過ぎる時、焦げ臭い匂いがした。そして、キリエが動かなくなった。キリエはおれの手を振り払うと、頭を抱えてうずくまってしまった。

「キリエ?」

 キリエの細い肩がき出しになっていることに気づいた。ダウンジャケットを脱いで、キリエに着せようとした。その時、おれたちの周囲が真っ赤に染まった。

「火が、怖いの」

 火? 顔を上げると、さっき出たばかりの宿が赤々と炎を噴き上げていた。炎は周囲を明るく染め、火の粉がまるで、怪物のしもべのように村のあちこちに飛んで行くのが見えた。吹雪はいつのまにかやんでいる。

「しっかりしろ、キリエ」

 おれはキリエの正面に回り込み、無理矢理立ち上がらせた。だだをこねるように首を激しく振るキリエの両頬を押さえて、おれの方へ顔を向かせる。

「ああ、火は怖い。でも、おれたちは今、もっと怖い奴に追われている。わかるよな?」

 キリエは震えながらも、コクリとうなずいた。よし、落ち着け。落ち着け、キリエ。落ち着け、おれ。キリエがすがるような目でおれを見ている。何か言わなくてはならない。

「でも、大丈夫だ。おれがなんとかする。おれの父親はしんカンパニーの創始者だ。兄貴は、あの、バカ社長」おれはいったい何を言っているのだろう?「隠してて、ごめん」

「知ってた」キリエがポツリと言った。「ツォンから聞いたの。でも、その話をしたら、エヴァンが遠い人になっちゃいそうで──」

「おれはおれだ。でも、今は違う。神羅の血が、おれにパワーをくれる。ああ、神羅はなんでも知っている。とにかく、おれに任せろ」

 我ながら、無茶苦茶だと思う。しかし、キリエは、微笑んだ。これだ。パワーをくれるのは、血なんかじゃない。

「行こう」

 おれはキリエの手を引いて歩き出す。北を目指した。キリエを炎に近づけるわけにはいかない。あんなキリエは、もう見たくない。

「爆発寸前」

 後ろからキリエが言った。

「え?」

「エヴァンの、背中のボム」

「ああ」

「カッコいいよ」

「知ってる」


*  *


「レノたちとの連絡は?」

 ツォンはヘリの腹にえ付けられたロケットランチャーの点検を済ませると中にいるイリーナに声をかけた。

「もうすぐこっちに到着するそうです」

「どういうことだ」

「すいませーん、ツォンさんがいない時に連絡があって、わたしうっかりここにいることしゃべっちゃったんです」

「よくやった」

 イリーナはポカンとして上司を見ていた。ツォンは構わずヘリに乗り込み、村の方を見た。宿が燃え、空が赤く染まっていた。

「飛ばせ」

「了解!」


*  *


 ファビオに化けたあいつと入った小屋の近くまで来た時、背後からヘリコプターの爆音が聞こえてきた。振り返ると、ツォンたちのヘリが上昇している様子が見えた。低空でせんかいし、こっちに方向を定めると機首を落とし、向ってきた。やがてヘリは村の真上あたりでホバリングしてゆっくり回転し始める。

「わたしたちを探してるんじゃない?」

「どうかな──うわっ」

 どこにいたのか、あの少年が地上からジャンプしてヘリに飛び移ったのが見えた。現実の光景とは思えなかった。ヘリの窓のあたりで連続して火花が散るのが見えた直後、マシンガンの音が聞こえてきた。おれたちが持っていたのとはまったく違う、腹に響く力強い音だった。タークスが応戦している。敵を乗せたまま、ヘリは高く舞い上がる。そのヘリが、いつの間にか顔を出していた満月と重なる。丸い月を見て、過ぎた日の光景を思い出す。十七歳の記憶。世界の滅亡を意識したあの七日間。メテオ。空から来たさいやく。いや、やくさい、だったか?

「ああ──」

「何?」

 空から来た厄災はメテオのことではない。誰から聞いた言葉だろう。そうだ。ドレイク先生だ。

《信じられないのも無理はないが、ジェノバは神羅カンパニーがずっと研究していた謎の生命体だ。大昔に宇宙から来たらしい。空から来た厄災と呼ばれていた》

 そして、ひらめいた。ひらめくなどという体験は初めてかもしれない。ヘリの爆音が大きくなり、おれたちの頭上を低空で飛び、北へ向かって行く。マシンガンの光と音が断続的にツォンたちの奮戦、あるいは戸惑いを告げる。片腕でヘリにぶら下がっているあいつがおれたちを見てあざ笑ったような気がした。

「キリエ、あいつを倒せるかもしれない」

「うん」キリエはヘリの行方を目で追ったまま上の空で答えた。そして──「エヴァン、今なんて言ったの?」

「おれたちであいつを倒そう」

 目を大きく見開き、キリエは驚く。やがておれの首に腕を回して抱きつき、言った。

「エヴァン、やっぱり、素敵!」

 やっぱり? まあいい。最後までそうありたいと切実に思った。


  44 絶望と希望


 おれたちはヘリの後を追うように、立ち入り禁止の札が垂れ下がったロープを越えて、村の北側に広がる大雪原に入り込んでいた。ツォンたちのヘリは雪原の上を大きく周回しながら飛んでいた。おれたちの場所からでは、あいつがまだヘリにいるのかどうかわからなかった。気にしている余裕はない。今のうちに目的のものを探さなくてはならない。おれは雪原を見渡す。北に向かって緩やかに下っている雪原には思いの外ふくがあって、月明かりが作り出す影が幾つもあった。探している「穴」を見つけるのは大変そうだった。

「歩き回るしかないな」

 おれは歩き出す。キリエはおれの右手をしっかりと握っていて、それはなんでもできる気分にさせてくれる。これからやろうとしていることにはなんの確信もない。ただの、ロマンチックな想像だ。握られた手から伝わってくる暖かさだけが現実だった。空から聞こえる爆音を無視して、おれは広がる雪の世界に意識を集中した。そしてほどなく「穴」を見つけた。宿屋の女将さんが言っていたクレバスだ。二年前、ライフストリームが噴き出した時にできた大地の裂け目。幅は一番広いところでおれの身長くらい。長さだけなら、ヘリがそのまますっぽり入ってしまいそうな大きさだった。

「ここにしよう」

「うん」

 おれたちは並んで、慎重にクレバスに近づく。しっかりと固まっているように見えても、ただ、クレバスの上に雪がせり出しているだけかもしれない。どこまでが安全なのかわからなかった。やがて、裂け目の中が見えるほどにおれたちは近づく。離れて見ていた時はただのしっこくだったが、近くで中を見ると、二メートルほどの雪の層の下は氷になっているのがわかる。この氷が地の底まで繋がっていて、その、さらに下にはライフストリームが流れているはずだ。

「エヴァン、見て」

 キリエが指さす先には巨大な白い壁があった。氷壁だ。垂直に見える白い壁が、星のまたたく空に続いていた。ヘリがその壁を背にして戻って来た。怪物を振り落とそうとしているのか、急上昇と降下を繰り返す。危なっかしい飛び方だった。やがておれたちの上空に差し掛かる。

「あいつ、まだつかまってるの?」

「いや、見えないな」

 目をこらし、ヘリの移動に合わせて首を巡らせていると──。

「ぼくなら、ここだよ」

 目の前にあいつがいた。

「あんたたちはジェノバの居場所を知らない。もう用はない。でもね、せっかく知り合ったんだから、遊ぼうと思ってさ」

「あんな遊び、どこで覚えた」

 おれはまだ燃えている村の方を見て言った。火は宿だけではなく、周囲の家々にも広がっていた。ここからでは見えないが、逃げ惑っている人たちも大勢いるのだろう。

「キリエが教えてくれた」

「わたしが? まさか!」

 少年の姿をした怪物が素早く手を伸ばし、キリエの肩を掴む。キリエがビクリと身体を震わせる。ぼくは慌てて手を引き、キリエを怪物から取り戻す。

「カダージュ、ヤズー、ロッズ。昔の悪い仲間」

「やめて」

「燃えるスラム」

「わたしは一緒にいかなかった。断った」

「でも、止めなかった。そのせいで大勢焼け死んだ。逃げ遅れた三人も」

「カダージュ。好きだったんだろ?」

 キリエの過去に火事にまつわるまわしい出来事があったのだろうとはなんとなく思っていた。今でもまだ立ち直れない、絶望的な後悔。それをこの怪物はもてあそんでいる。

「黙れ!」

 おれは亡霊を殴ろうと右手を引いた。その時、相手は飛び上がり、おれの頭を飛び越えて、反対側に着地した。怪物はクレバスのしんえんを背にして薄笑いを浮かべている。

「もう、許してくれないか」

 おれは哀れな声で許しを請う。こうとうらいだと思っていることを悟られてはいけない。クレバスからも目をそらす。

「何を許せって? キリエの脚ばかり見ていることか?」

 口の端を歪めながら、そいつは言った。その事実は、以前ならいざ知らず、今のおれをろうばいさせたりはしない。

「──ガキだな。お子様だ。何もわかっていない」

 おれは初めて他人に対して優位に立ったような気がした。相手の顔が憎悪に歪む。その時、隣のキリエが体当たりしようと身をかがめて駆け出す。カダージュ──こう呼ばせてもらおう──は一歩だけ後退すると、飛んだ。目標を失ったキリエはバランスを崩し、慌てて止まろうとする。おれはキリエを捕まえようと踏み出す。キリエは身体を回転させて、なんとか止まった。そしておれに向って手を伸ばす。おれの手がそれを捕まえた瞬間、キリエの足下の雪が崩れる。彼女は立ったまま、真っ直ぐにクレバスに落ちていく。おれは握った手に力をこめ、体重を後ろにかけて衝撃に備える。しかし、想像以上だった。キリエの身体を支えきれず、おれはうつぶせに倒れた。クレバスに向って落ち込んでいく雪の上を、おれはゆっくりすべっていく。

「エヴァン──」

 雪面から顔を上げてキリエを見ようとしたが、手しか見えなかった。

「エヴァン、わたし──」

 キリエが、手を離してくれと言うのを想像した。そんなことは許さない。

「わたし、死にたくないの」

「わかってる!」

 しかし、気持ちとは関係なく、おれは斜面をズルズルと滑っていく。

「助けて欲しいかい?」

 カダージュの声が聞こえた。

「頼む」

 すると、おれたちのかんまんな滑落が止まった。何が起こったのかわからなかった。左肩が熱かった。首を捻って見ると、細身の剣がおれの肩をつらぬき、雪に突き刺さっていた。血が流れ、雪を染める。おれは悲鳴をあげ、右手に握りしめていた何よりも大切なものを手放してしまった。


*  *


「主任、あそこです。どうしますか?」

 イリーナに言われるまでもなく、ツォンは気づいていた。雪面に無数に口を開けているクレバスのひとつ。その縁に銀髪の怪物がいた。地面に倒れているエヴァンに剣を突き立て、こちらを見ている。おそらく、笑っているのだろう。ツォンは、あの少年を、ジェノバ細胞を持つ者、あるいはジェノバに連なる者だと考えていた。しかし、あれはただ、ジェノバを探しているだけの存在のようだ。正体は不明。もう、何もわからない。ただ、あれにジェノバを渡してはいけないという確信だけがあった。

「ミサイルを使う」

「エヴァンがいますけど──」

「──構わん」

「でも、社長の弟なんですよね? ほら、わたし撃っちゃったじゃないですか。だからクビになるんじゃないかとビクビクして──」

「構わんと言ったのが聞こえなかったか?」


*  *


「なんだなんだなんだ!」

 レノは次第に近づいてくる地上の光景に目を丸くした。アイシクルロッジ全体が燃えている。

「キリエとエヴァンは?」

 後部座席から身を乗り出してレズリーが聞く。その時、無線機の呼び出し音が鳴った。レノが音声をスピーカーに送るスイッチを入れる。

「レノさん、どこです?」

 イリーナの声が流れた。

「もうすぐ村に着くぞ。いったいこりゃ──」

 レノはヘッドセットを通じて応答する。

「エヴァンはどこだ!」

 後部座席からドイルが怒鳴った。

「村を越えて、北の雪原まで来てください。これから敵をせんめつします。攻撃モードでお願いします!」

「敵だあ?」

「あとどれくらいで着きますか?」

「もう見えている」

 操縦しているルードが答える。その声に一同は前方を見る。ホバリングしているツォンたちのヘリが見えた。

「レノ、攻撃準備」

 ルードが低い声で言った。

「おう」

 レノはシートベルトを外すと狭い副操縦席で身体を入れ替え、ルードが陣取る操縦席とのすきから後部席へ移る。後方を向いている三座式シートの下に隠されたかくのうボックスを開こうと、留め金をパチパチと手際よく外す。正面向きのシートに座っているドイルとレズリーはその作業を見ている。レノはふたを兼ねたシートを跳ね上げ、箱の中から重機関銃を取り出す。

「ひさしぶりだぜ──」

「敵とは──何者だ?」

 ドイルが聞く。

「知るかよ」

 レノは機関銃を取り出し、レズリーの膝の上に置くと、続いて銃を設置する三脚式の台座を取り出した。手早く組み立て、ヘリの後部席の右扉近くに穿うがたれた穴に設置する。

「知らないのに、攻撃するのか」

 ドイルが聞く。レノはレズリーの膝から銃を取り返すと、設置したばかりの台座に固定する。上下左右に銃口がなめらかに動くことを確認すると、格納ボックスから弾帯を取り出し、機関銃の給弾口にセットする。そして跳ね上げたままの座面を降ろすとその上に座り、ドイルを見据えた。

「あっちのヘリにはおれたちの上司が乗ってる。そこから指示があったら、おれたちは従う。これが組織って奴よ」

「哀れだな」

 レズリーが鼻で笑う。

「おまえらの言葉だと、組織じゃなくて、仲間っていうのか? 似たようなもんだろ」

 レノは立ち上がると扉に近づき、開閉レバーに手をかける。


*  *


「ツォンさん、先輩たち、来ました」

 ツォンはヘッドセットを頭に乗せ、口元にマイクの位置を合わせる。

「ルード、我々を越えて北上の後、反転。弾幕を張って敵の退路を断て。こっちはすぐにミサイルを撃ち込む」

 空電ノイズに混じってルードが了解と応じるのが聞こえた。


*  *


 スピーカーを通じて上司の指示を聞いていたレノは勢いよく扉を開く。風がかたまりになって機内に入り込み、暴れる。レノはひるむことなく機関銃の背後に回り込み、銃口を外に向ける。やがて扉の外、二十メートルほど先にツォンのヘリが見える。こちら側の席に座っているツォンが指先で行けと指示するのが見える。ルードはそうじゅうかんを前に倒して機首を下げ、ヘリを前進させる。そして、少し進むと、その場でせんかいさせた。レノは眼下の敵の姿を確認しようと目をらす。雪面に口を開いたクレバスの側にそいつはいた。銀髪の、きゃしゃな姿をした少年だ。そしてその足下に倒れているのは──エヴァンだった。

「あのバカ」

 レノは呟く。

「どうした? 撃て!」

 スピーカーからツォンの声が響く。

「エヴァンがいる」

 ルードがレノを代弁する。

「構わん。もう死んでいる。撃て」

 ツォンの声にドイルとレズリーは顔を見合わせる。

「できねえぞ、と」

「レノ」

 ツォンのしっせきが響く。

「あいつ、ダチだからよ」

「わかった。手短に経緯を説明し──」

 ツォンの言葉が途切れる。

「故障だ」

 ルードが無線機のマスタースイッチから手を離しながら呟く。ドイルが首を伸ばして覗き込むとスイッチがオフになっているのがわかった。

「エヴァンは生きている」窓の外を見ていたレズリーが低い声で言った。「助けてやってくれ」


*  *


「イリーナ、単独でやる。機首を安定させろ」

「──はい」

「おまえもエヴァンの友人なのか?」

 ツォンはイリーナの声に含まれたちゅうちょを聞き逃さない。

「──違いますけど、レノさんが──」

「操縦システムを切り替える。わたしがやろう」

「やります! わたしが操縦します!」


*  *


 肩から全身に広がる痛み。キリエを失った苦しみ。頭がおかしくなりそうだった。早く殺してくれ。

「空がうるさいね」

 カダージュの声がやけに遠くに聞こえた。

「エヴァン!」

 キリエの声だった。本当に聞こえたのだろうか。

「キリエ」

 おれは叫んだ。声にできたのか自信がなかった。

「エヴァン」

 今度はちゃんと聞こえた。おれたちは生きている。絶望的な状況ではあるけれど、まだ生きている。

「あっちからやろうかな」

 カダージュの声と同時に、剣が肩から抜ける感触がした。痛みが消えることを期待したが、あっさり裏切られた。この痛みを消したければ動くしかないのだ。これ以上、悪いことにはならないだろう。少なくとも、この先にはキリエがいる。おれは右手のひじと両足を使って、目の前の穴ににじり寄った。


*  *


 ルードはイリーナが操縦するヘリを見つめていた。機首を敵に向けて安定させるのに苦労しているようだった。イリーナの隣でツォンが俯いて何かを操作しているのが見える。ミサイルの発射装置を微調整しているのだろう。やがてツォンは顔を上げ、イリーナに何か言った。するとヘリは上昇を始め、機首を村の方へ反転させた。一度戻り、敵に向かって直進しならがミサイルを撃つつもりだ。ホバリングが苦手なイリーナにはその方が向いている。

「どうするつもりだ?」

 複座の操縦席に戻っていたレノが聞いた。

「ツォンさんは、やるだろうな」

「ちがうって、相棒。あんただよ」

「おれはエヴァンが嫌いだ」

「知ってるぞ、と」

「だが、キリエは嫌いじゃない」

 ルードは操縦席の窓越しに地上を指さしながら機首を下げる。レノがのぞき込むとクレバスの縁から三メートルほど下に迫り出す氷のオーバーハングに赤いダウンジャケットを着たキリエの姿があった。氷の壁を登ろうと苦労しているようだった。素足にブーツという、見ているだけで凍えそうな格好だ。クレバスの上ではうつぶせのエヴァンが、少しずつ前に進んでいるのがわかった。その近くで「敵」と呼ばれる少年がこちらを見据えている。

「あのガキんちょが敵ってか?」

「二年くらい前から、敵はたいていガキだ」

「ちがいねえ」

「ルード、ヘリを下げてくれ」背後の、意外な近さでレズリーの声がした。レノが振り返ると据え付けた機関銃の前にレズリーが陣取っていた。

「あの、剣を持った奴を倒せばいいんだな?」

 ドイルが扉の開閉レバーに手をかけて言った。

「ルード、急げ。高度を下げろ。上から撃つとエヴァンに当たる」

「素人が命令するな」

 ルードは低く呟くと一気に高度を下げた。ドイルが扉を開く。機内は再び風とエンジンの音に満たされた。やがてそこにレズリーが撃つ機関銃の音が混じる。


*  *


「ツォンさん、あれ」

「やっとその気になったか」

「どうします?」

「突っ込め」


*  *


 レズリーの銃弾は確実に敵をとらえているはずだった。

「不死身かよ、あいつは」

「そんなバカな──」

 剣をだらりとぶら下げたまま立っている少年は笑っているように見えた。レズリーとドイルの理解を超える存在だった。

「相棒、ツォンさんたちが突っ込んでくる」

「あいつも来るぞ」

 後方からドイルが叫ぶ。ルードは少年がゆっくりと近づいてくるのを確認した。舌打ちして高度を上げる。地上十メートル。

「なっ!?

 操縦席のガラスの向こうに「敵」の姿があった。銀髪の少年はヘリの鼻先に立ち、バランスを保っている。ニヤリと笑うと剣をふうぼうに突き立てる。強化されているはずの風防がまるで普通のガラスのように砕け散る。剣先がレノの目の前で止まる。

「ばけものだぞ、と」

「後ろの素人ども! 飛び降りろ!」

 言うや否やルードは機体の右側を下にして大きく傾けた。

「何をする気だ!」

 シートベルトを外していたドイルとレズリーは抗議しながら、開けっ放しだった扉から落ちていった。

「上がるぞ」

 ルードはヘリを急上昇させる。目の前にいたはずの「敵」の姿が消えていた。

「どこ行った?」

「こっちこっち」

 レノが振り返ると後部座席に「敵」が坐っていた。

「楽しいね」

「一人で遊んでろよ、と」

 レノとルードは同時に左右のドアを開き、ヘリから飛び降りた。


*  *


「発射」

 ツォンは部下たちがぼうな脱出を終えたのを確認すると、発射ボタンを押した。

「行けー!」

 イリーナの勇ましい声と同時に、ヘリの腹に装着された発射装置からミサイルが放たれる。炎と白煙を噴き出しながら「敵」が乗っているヘリに、ミサイルは吸い込まれるように突っ込んで行った。そして爆発。ヘリは空中で炎に包まれ、黒煙を吐き出しながら落ちて行った。


  45 氷の迷宮とライフストリーム


 おれが死にかけたヘビのようなかんまんな動きでクレバスの中にすべり込んだのと、近くで爆発が起こったのは、たぶん同時だったと思う。周囲が揺れて、最後の一押し。努力を無駄にされたことを腹立たしく思いながらおれは落下した。数メートル落ちた所に氷が張りだした場所があり、キリエはそこに立っていた。肩を打って叫びそうになる。

「エヴァン!」

 立ち上がり、不安でいっぱいのはずのキリエに応えようとした。その時、近くで氷が裂ける音がした。次の瞬間に起こることを予想して、おれは立ち上がることをあきらめ、キリエを呼び寄せようと右手を伸ばした。キリエがおれの手を取る。力をこめて引くと、キリエは戸惑いながら膝を折り、おれの横に坐る。手を離し、激痛に耐えながら、今度はキリエの後頭部に右手を回し、抱き寄せる。意図がわかったらしく、キリエはおれの胸に顔を埋める。

「もう大丈夫」

 最悪の状況の中では、最善のせんたくだろう。

「うん」

 絶望的な音がして、おれたちを乗せた氷のテーブルが根元から折れた。斜めになったテーブルから滑り落ちたおれたちは空中に投げ出される。このままおれが下になって落ちればキリエが受ける衝撃はきっと和らぐ。おれはどうなるだろう。頭を打って気を失うだろうか。そのまま死んでしまうだろうか。落下しながら衝撃を待った。しかし、それはいつまで経っても来なかった。おれはキリエを抱えたまま、柔らかく、暖かいものに包まれた。真っ白な世界の中におれたちはいた。目を閉じても、まぶたを通してその白さが伝わってきた。暖かくも冷たくもない。状況がわからず、混乱した。口を開くと、勢いよく「何か」が入って来た。やがて声が聞こえた。いや、そんな気がした。人でごった返す駅で耳をふさいだ時のような聞こえ方。大勢の言葉が入り交じり、まったく意味をなさない。ノイズ。不快ではない。やがてその音も消える。深く深く、おれたちは落ちていく。キリエが強くしがみつくのがわかった。応えようと両手でキリエを抱きしめる。両手? そう。左肩はまったく痛まなかった。試しに肩をぐるりと回してみた。やはり痛みは消えていた。そして確信する。おれたちはライフストリームの中にいる。全ての命を受け入れ、やし、じょうし、新たな命を生む。命の、もうひとつの形。ばくぜんとして、理解できなかったことがスッと、あるべき場所に落ち着いたような気がした。今、おれは星と繋がっているのだ。眠くなる。耐えがたい睡魔だ。おれは落ちていく。どこまでも深く。


*  *


 頬に刺すような痛みを感じて目を覚ました。すぐ横に目を閉じたキリエの顔があった。穏やかな寝息が聞こえる。立ち上がって周囲を見回す。氷の地面に直径三メートルほどの穴が開いていて、おれたちはそこから出て来たらしい。穴の縁と水面は滑らかに連続しているように見えた。地面から緩やかに繋がる壁も天井も氷でできている。二年前にライフストリームが通った道なのかもしれない。ここは氷のパイプだ。

「キリエ?」

 声をかけると、キリエは目を閉じたまま迷惑そうな顔をしたが、やがて目を開く。

「エヴァン!」

「キリエ」

 上半身を起こしたキリエを引き寄せ抱きしめる。おかしさが込みあげてきておれは笑う。

「何?」

「おれたち、呼び合って、抱き合って、そればっかり」

「ホントだね」

 でも、それでじゅうぶんだ。

「うう。足が冷たい」

「その中──」おれはライフストリームに続く穴を指さす「暖かかったよな。かってみる?」

「っていうか、暖かくも、冷たくもないの。ただ、ただ、心地いい」

 おれは穴に手を差し入れた。しかし、皮膚を切り裂くように水は冷たい。思い切って肩の付け根まで沈めてみる。すると、指先のあたりは暖かいことがわかった。

「ライフストリーム──だよね?」

「うん」

「読めた?」

「まさか」

「想像していたのと、全然違った」

「でも、助けてくれたよな」

「そうだね」言いながらキリエは自分の身体を抱きしめる。「うう、寒いな」

「出口を探そう。このままじゃ凍えてしまう」

 いざとなればまたライフストリームに飛び込めばいいのかもしれない。しかし、また同じように助かる保証はどこにもない。ライフストリームはただ親切なわけではないことは、二年前に学習済みだ。今は怒っていないだけ。そんな気がした。

「ここは、ライフストリームの通り道。だから、どこかに出口はあるはずだ。二年前のね」

「うん」

 キリエは笑いながらうなずいた。

「何?」

「別人みたい。ウダウダしないもん」

「どーせおれは──」

 怒ったふりをして歩き出す。追ってきたキリエが左腕に絡みついた。

「あ、まただ。ごめんね──」

「いや、大丈夫。治してもらった」

「すごいね、ライフストリーム」

「普段の行いがいいからな」

 ファビオのくちぐせだった。

「ファビオもいたのかな」

「うん、きっと」

 おれたちは手をつないで歩いた。しばらく二人とも口を開かなかった。生き延びたことで浮かれてしまったことを後ろめたく思っていた。ライフストリームに溶けて星の一部になり、それは生命の別の形だと理解した後でも、死は、やはり受け入れ難い。友人の死はなおさらだ。


*  *


 一時間は歩いただろう。寒さは攻撃的だった。おれはともかく、キリエのき出しの脚が痛々しかった。パイプの内部は透明な氷でおおわれていたが、地中奥深いらしく、地上の光はまったく届いていない。ところどころ地面が明るくなっているのは、さらに地下を流れるライフストリームが放つ光のおかげだった。明るさが増すと、おれたちがここへきた時のような地面の穴が見つかった。どうにもならなくなったら穴に飛び込もうと考えていた。そこで待っているのは生か死か。どちらでも構わない。そういう心境にふたりともなったら、そうしよう。これまで何度かぶんを通過していた。どっちに進んでも同じだと思ったので、そのたびにおれは適当な理由をつけて道を選んだ。正解か不正解か。結局のところ、考えても答えは出ないのだ。歩き続けるしかなかった。最も絶望的な気分にさせてくれたのは天井に空いた穴だ。クレバス。地上に繋がっているのだろうが、氷の壁を登る術はなかった。

「文句、言ってもいいよ」

「喋ると、身体の中の暖かい空気が出てっちゃうううう!」奇妙なうなり声とともにキリエはしゃがみ込み、自分の脚をこすり始めた。

 その時、突風が吹いた。背中からの風に押されてキリエは前のめりになり、おれは半歩踏み出した。

「すごかったな、今の」

「ねえ、まだ吹いてる?」

 最初の突風の後も、確かに微風が続いている。

「天井の穴からだろ?」

「どこから入って来たかじゃなくて、どこへ行くかでしょ?」

 キリエは立ち上がり、歩き出した。

「あっちに、風が抜ける穴があるはず」

 おれたちは背中に希望の風を感じながら歩き出した。


*  *


「また荒れてきたな」

 ツォンが雪原を眺めながら言った。

「──どうする?」

 レノが面白くなさそうな顔で聞く。

「イリーナとわたしはアンダージュノンへ戻る。あそこからやり直しだ。ルードは一緒に来い。ヒーリンまで送ってやろう」

「ヒーリン?」

「三号機がある。あれで、レノたちを迎えに戻ればいい」

 レノとルードはげんな顔をして上司を見た。

「どうせ残って探すんだろう?」

 ツォンの視線の先にはどこからか手に入れた長いロープを持って雪原を進むドイルとレズリーの姿があった。


*  *


 おれたちは風を背中に感じながら一時間ほど歩いた。これまでに何度か見たのと同じような、ライフストリームに繋がる穴があった。穴を通り過ぎると道は緩やかな上り坂に変化した。登ることで地上に達するかもしれないという希望がわいてきた。しかし、登ったせいで地下の光源から離れたからだろう。周囲はかなり暗くなった。

「あ」

 先を進んでいたキリエが声をあげ、立ち止まる。おれは駆け足でキリエに追い付く。

「行き止まりだね」

 残念そうな声だった。五十メートルほど先で道が終わっているのがわかった。天井には穴が開いている。風はあそこへ抜けて行ったのだろう。おれたちは風にはなれない。

「戻ろう」

 ここにいると、残っているわずかな希望もなくしてしまいそうだった。

「エヴァン、見て」

 キリエが指さす、突き当たりの氷の壁の下に、奇妙なものがあった。数えると、十二あった。暗くてよくわからないが、黒い、横たわる人間ほどの大きさの物が十二。

「行ってみる?」

「うん」

 おれたちは恐る恐る、突き当たりに向って歩き出した。


 黒い、横たわる人間ほどの大きさの物は、そのとおりの物だった。黒いフード付きのローブをまとった人間の死体だった。男も女も、子供もいた。

「黒い服を着た人たち──」

 聞いたことがある。そうだ。アイシクル・インの女将さんの話に出てきた。

「母さんが、追いかけてきた人たち。守ろうとした人たちだ」

「きれいな顔してるね」

「きっと──寒さのせいだな」

「エヴァン?」

 おれは、うん? と言いながら、遺体から目を離し、キリエを見た。キリエは視線を奥に向けたまま、おれの方に手を伸ばし、腕をつかんだ。キリエの視線を追う。目をらして、突き当たりの暗がりを見た。一番奥の隅に、母はいた。キリエと同じ、赤い羽毛入りのジャケットを着ている。壁に背中を預け、膝を身体に引き寄せて坐っていた。左手は膝を抱え、右手はだらりと床についていた。

「母さん?」

 ただ眠っているように見えた。キリエがおれの手を引き、駆け出した。腕が伸びきってもおれは動けなかった。

「エヴァン?」

 おれは応えず、ただ首を振ることしかできなかった。

「いいの?」

「うん」

「いいはずない!」

「いや」

「わたしが先に会ってきていい?」

「──」

 おれが応えずにいるとキリエはゆっくりと母に近づいて行った。そして母の前でしゃがみ込む。

「初めまして、エヴァンのお母さん。わたしはキリエ・カナンと言います」

 キリエはあいさつを終えると母の、床に下がった右手首に触れた。数秒、そうした後、大きくため息をついた。おれは見ていられなくなり、目を伏せる。母がここへ来た時のことを思うと胸が熱くなった。クレバスに落ちて、歩き回り、やがて絶望的な気持ちでここへ辿り着いたのだろうか。ここで静かに死を待ったのだろうか。

「これ──」

 いつの間にか戻って来ていたキリエが一通の封筒を差し出した。しんカンパニーのマークが印刷された封筒だった。ニックス・フォーリー様と母の字で宛名が記されている。封を切ると、中には重ねて折りたたんだ紙が何枚か入っていた。


*  *


 しんカンパニー 業務部ニブルヘイム対策室課長 ニックス・フォーリー様


 不規則行動によってニブルヘイムを出て北へ向かった被験者のうち、がらを確保できた五人について報告致します。尚、発見時はすでに全員死亡していました。

ケイトリン・スタークス

エドモンド・スタークス

トレバー・ショーン

エズラ・モンティ

イアン・メドウス

以上。アイシクルロッジ北の雪原地下で確保。雪原地下は迷路状になっており、それぞれ別の場所で遺体を発見しました。この場所に至る経緯は不明です。また、リック・ファーガス、リサ・トゥッティ、セナ・ヨークの三名に関しては現時点で所在不明です。また、捜索時に被験者と思われる七名の遺体を発見しました。ニブルヘイム以外から来たものと思われます。

  報告は以上です。 第四期植民隊 #005 アネット・タウンゼント


*  *


 ニックス・フォーリー様

 これはお友達としてのニックスてです。わたしは一度任務を放棄しました。その結果、あの人たちを死なせてしまったのかもしれません。でも、あの人たちがニブルヘイムを出てしまうことは想定外ですよね? わたしは世話係として、精一杯やったつもりでいます。どうか、お金はエヴァンに渡るようにしてください。いつもお金の話ばかりで自分でも情けないと思っています。でも、本当に必要なのです。よろしくお願いします。

                            アネット


*  *


 おれは母に駆け寄り、抱きしめた。記憶の中の母よりも、とても小さく感じられた。母は生きているように、きれいだった。おれの頬に触れる金髪が、柔らかく、溶けだした。

「エヴァン?」

 背後からキリエに呼ばれ、振り返ると──

「もう一枚、あるの。ジャケットのポケットに入ってた」

 おれは受け取ると母の隣に並んで座り、読み始めた。


『母さんへ メテオが消えてから十日くらいだ。おれは毎日昼になったらスラムの駅に一時間だけ立っている。それ以外の時間も、なるべく駅にいる。 エヴァン』


 二年前、おれが家に残したメモだった。おれはメモを顔に押しつけて込みあげる後悔を押さえ込もうとした。

「裏にも何か──」

 キリエが隣に座りながら言った。メモを裏返す。ニックス宛ての手紙と違って、力の無い、乱れがちな文字が並んでいた。


*  *


 エヴァンへ


 まず一番大切なこと。心臓の手術をした時のことは覚えているよね。あの手術は成功だったけど、同時に、頭の中にけっしゅが発見されました。それは成長とともに大きくなって、やがてあなたの命を奪ってしまうものです。なるべく早く手術する必要があったけど、お金が用意できずにこんなに時間が経ってしまいました。本当に申し訳なく思っています。でも、家にあるお金と、この仕事で入るお金を合わせれば手術を受けられるはずです。ニックスにしつこくお願いしてあるので、きっと大丈夫。ニックスを嫌っているのは知ってるけど、我慢してね。ディミトリー先生というお医者さんがジュノンにいます。この間会って、こっちもしつこくお願いしておきました。絶対に手術を受けてね。それから、わたしのことを少しだけ。ないしょにしていたけど、わたしは若い頃、神羅カンパニーで働いていました。社長の秘書でした。その頃の女の子の憧れの職場です。わたしはちょうてんで、調子に乗ってしまいました。そしてとても愚かなことをしてしまいました。愚かなことと思いつつも、やめられませんでした。終わりが来た時は、ぼうで、いつ死んでもいいと思っていました。でも、あなたを授かった。あなたのおかげで立ち直ることができました。ありがとう、エヴァン。どれだけ感謝しても、したりません。まだ少し書けそうです。お願いがあります。とてもお世話になった人たちがいます。もし会うことがあったらお礼を言っておいてください。ヴィンセント・ヴァレンタインさん。アイシクルロッジからミッドガルへ戻る時、助けてくださいました。シド・ハイウィンドさんとバレット・ウォーレスさん。ミッドガルからアイシクルロッジへ来る時、お世話になりました。ねえ、エヴァン。この手紙、あなたが読むことはないのでしょう。でも、もしかしたらと書かずにはいられません。母さんはこの「冒険」を通じて知ったことがあります。この世界は善意に満ちています。世間知らずなわたしが旅をできたのはその善意のおかげです。同じ善意に運ばれて、この手紙はあなたに届く。そんな気がしています。じゃあね。おやすみなさい。さようなら、エヴァン。


*  *


 キリエのすすり泣きが聞こえていた。おれは泣かない。母さんには泣き顔を見せたくない。

「行こう、キリエ。おれたちは、生きる」

「うん」

 キリエがゆっくりと立ち上がり、続いておれも立ち上がる。最後に、と思い、もう一度母を見た。すると、母のジャケットの胸の下あたりが不自然にふくらんでいることに気づいた。おれはしゃがみ、ジャケットのファスナーを下げた。中には黄色のセーターを着ていた。そして胃のあたりに、チェックのハンカチでくるんだ包みを見つけた。ハンカチは見覚えがあった。母がよく使っていたものだ。おれは手を伸ばし、それを取り出そうとした。

「暖かい」

「何?」

「わからない」

 なんだかわからないが、これが母さんを最後まで温め続けたのだろうか。

「母さん、借りるよ」

 おれの大事な人が凍えないように。そのチェックの包みをジャケットの中から取りだし、キリエに渡した。

「いいのかな」

 キリエがちゅうちょする。

「正体不明だから気持ち悪いけどな」

「そんなこと言わないの」

 抗議するキリエに微笑んで見せると歩き出した。もう振り返るまいと思っていた。


「みーつけた」

 すぐ後ろから声がした。その声を聞いた瞬間、おれは逆上した。母が善意に満ちていると言った世界の、黒いシミのような存在を心の底から許せないと思った。振り返り、間髪入れず声の主に向って殴りかかった。一発目が相手の頬に当たった。これまでに感じたことのない手応えがあった。少年は驚いた顔をしてよろめき、倒れた。

「おれたちになんの用だ!」

「母さんへの──君たちの、お互いへの気持ち──友達とかいうやつへの──気持ち──」

 少年は顔をゆがめて──もしかしたら泣きそうになっているのかもしれない──振り絞るように言った。と思うと、動物じみた動きで立ち上がり、空中から──何もない空中から剣を取り出した。

「気に入らないんだよ、あんたたち」

「エヴァン、相手しちゃダメ」

 キリエがおれの手を引いて走り出す。

「逃げても無駄さ」


 おれたちは走り続けた。氷で足をすべらせないように走るのは神経を使う。しかも、逃げ切れるあてもなかった。おれたちはただただ走った。やがてライフストリームへと続く穴が見えて来た。

「キリエ、飛び込もう。ライフストリームが守ってくれる」

 あれはきっと善なるものの根源なのだ。そうに違いない。

「あっ」

 キリエが転びかけていた。まるでダンスの様に手足をじたばたさせていた。チェックのハンカチがほどけて中身が飛び出し、地面に落ちるのと同時にキリエは転んだ。キリエに駆け寄り助け起こそうとすると──

「エヴァン、あれ」

 キリエはゆっくりと滑る包みの中身を指さす。見ると、不気味な、干からびた肉の断片のような──それは間違いなく、写真で見たことがあるミイラだった。

「逃げても無駄って──」

 背後からかけられた声が途切れる。振り返ると、あいつもミイラを見ていた。ジェノバのミイラだ。

「母さん──母さん!?

 少年はフラフラとミイラに近づこうとする。おれは転がっている怪物の断片に駆け寄り、地面の穴めがけてった。それは転がり、狙い通り、穴の中に落ちる。

「何をする!」

 少年はおれたちをすり抜けて──文字通りすり抜けてジェノバを追う。ジェノバは水面に少しの間浮かんでいたが、やがて沈んでいった。

「母さん!」

 少年は叫び、水に飛び込んだ。

「うっ!」

 少年の顔にもんが浮かぶ。胸まで水にかった少年は穴から出ようともがく。おれは近づき、その肩を蹴った。

「消えてしまえ!」

 少年は恐ろしいぎょうそうでおれをにらんだ。同時に、周囲の水が泡立ち、下から上へ、まるで生きているかのように少年の身体をおおい尽くす。

「おまえたち──」

 少年の顔と髪が、白く、時に薄いグリーンに輝く水──ライフストリームに覆われていった。やがて少年と光はこんぜんいったいとなり、表面が蒸発するように、小さな光の粒子が空中に噴き出し始める。

「必ず──もっと強くなって──必ず──」

 必ず戻る。少年はおそらくそう言いたかったのだろう。しかし、言い終えることなく、光の粒子となって消えてしまった。空中を漂う光は天井に当たり、周囲をひときわ明るく照らすと、火の粉のように消えた。

「やった──」

「うん。でも、なんだかわいそう

「そんなこと言うと、また来る。あいつはきっと──寂しがり屋だ」

 母親を探す者の気持ちなら、おれにも身に覚えがあった。優しさや親切には吸い寄せられてしまうのだ。おれは受け入れてもらえた。だから、変わることができた。あいつには何もなかった。おれと、あいつの違いは、それだけなのかもしれない。

「ねえ、エヴァン。気になってたんだけど、どうやってあいつを倒すつもりだったのかな?」

 キリエがここまでその質問をしないでいてくれたことに、おれは感謝する。言葉にするとばかばかしくて、自分でもあきれてしまうからだ。

「人間の手に負えない奴は、ライフストリームがやっつけてくれると思った」


*  *


 状況はそう変わらなかった。できることは、歩き回ることだけ。ただこれまでと違うのは地面の穴には目もくれず、天井の穴を見つけるたびに助けを呼ぶようにしたことだ。

「おーい!」

「おーい!」

 おれたちは交互に、時には声を合わせて叫んだ。

「おーい!」

「おーい!」

 同じことを五個目の穴で繰り返したときだった。

「エヴァンか!?

 なんと、レズリーの声が聞こえた。

「わたしもいるよ!」

「そこでジッとしてろ!」

 村長の声だ。

「やったね」

 おれとキリエは顔を見合わせ、しっかりと抱き合った。

「てめえら、いい加減にしろよ」

 レノの声だった。おれとキリエは離れ、天井の穴を見上げた。

「こっちだぞ、と」

 見ると、数メートル離れた壁にレノが寄りかかっておれたちを見ていた。大きく息を吸い込み、そして吐き出した。息が真っ白だった。

「寒っ」

「誰のせい?」

 キリエが聞くと同時に、おれたちはレノを指さし、レノは両手でおれたちを指さした。


  46 幾つかの後日談


 アイシクルロッジはほとんどの家が焼け落ちたにもかかわらず、死亡者は一人もいなかった。げんかんの村で家を無くした人たちのことを思うと不幸中の幸いとはとても言えなかった。おれたち──キリエ、レズリー、ドイル、レノ、ヘリで迎えに来たルードは逃げるようにして村を去った。道中、互いに情報を交換した。そして、アンダージュノンへ行き、ツォン、イリーナと再会した。イリーナはおれの肩を撃ったことを謝ったが、前回同様、渋々という感じだった。この先も、友達にはなれないのだろう。ツォンはこれまで以上に、おれに対して事務的に接した。しかし、おれの病気と手術のことを話すと、ユージン医師を紹介するだけでなく、母が受け取るはずだった報酬を用意すると言ってくれた。

「でも、それだけじゃ足りないはずなんだ。母がめていた金はおれが使ってしまったから──」

「元神羅の医者なら、なんとかなるだろう。行こう」

 ユージン医師はもちろん、アンダージュノンのあの医者だ。

「いや、やっぱり止めておくよ」

「手術をしないと死ぬんだろう?」

「母さんは、コネを使うまいとして苦労していた。おれが五歳の時、たぶん一度だけ頼った。おれの命と引き替えに顔も見たくない相手に頭を下げたんだ。母さんにとっては敗北だったと思う。だから──」

「しかし、最後には再び神羅の仕事にいた」

「あれはコネじゃなくて、真っ当に働こうとしたんだ」

「おまえも労働の報酬なら受け取るということか?」

 ツォンが聞いた。なんとなく笑いを噛み殺しているような顔をしているのが気に入らなかったが、おれは渋々ながら、そうだと応えた。

「では、労働の報酬ということにしておこう」

「おれは何をしたんだ?」

「そうだな──我々の敵対勢力が現れ、社長の身辺に危険が迫る可能性もあったが、おまえが敵を引きつけ、社長は事なきを得た。身代わりを勤めたということにしよう」

「──」

「じゃあ、それで決定」キリエが勝手に決めてしまった。「もう、とにかく早く先生のところへ行かなくちゃ。エヴァン、これまで無事だったからって、明日も何も起こらないってわけじゃない。わかってる?」

「仕方が無いな」

 おれだって、死にたいわけじゃない。


 ユージン・ディミトリーが語った真相は最悪だった。ツォンと二人で診療所へ行き、事情を説明すると、医者はしばらくソワソワと診察室の中を行ったり来たりして、やがて無理矢理作ったような笑顔を顔に浮かべて言った。

「タークスも一緒とはな。これはだましきれないな」

「どういう意味だ」

「おまえさんが子供の頃に受けた手術のしっとうはわたしだった。プレジデント神羅の隠し子だと聞いて、これは金のなる木だと思った。手術が終わった後、母親に、脳に病気があることや、わたしにしか治せないだろうこと、手術には結構な費用がかかることを伝えた。思い出したよ。その場で倒れて、二、三日、寝込んだはずだ。ふっかけすぎたかと思った」

 おれはあまりのことに口がきけずにいた。代わりにツォンが聞いてくれた。

「それで?」

「まあ、当時は、たまに、そういうことをしていた。なんせ、わたしはいつでも給料には不満があったしな。しかし、おまえの母親に話したことは、しばらくのあいだ、忘れてしまった。二年くらい前に、連絡をもらうまでは。おまえの母親は、あの時の約束はまだ有効かと聞いてきた。手術の費用のことだ。物価はかなり変わったから、心配だったのだろうよ。そして、金のが立ったから手術をして欲しいと言ってきた。まあ、それっきりだったが」

 まるで母が悪いのだというような言い方だった。

「つまり、そもそも、おれは病気ではない?」

「もちろん」

 母は騙され、その結果、働き詰めで、最後は命を落とした。この、目の前にいる男のせいで。

「おまえと母親には悪いことをした。こんなに長いあいだ、騙され続けるのも珍しいと思うが──まあ、許してくれ。この通りだ」

 医者は頭を下げた。おれはこぶしを握りしめて医者に近づこうとした。が、ツォンに止められた。

「ファビオという若い男はこの件に関係しているのか?」

「いや──知らないな」

「ドレイクという医師は?」

「ああ、ドレイク。あれはずっとわたしの助手だった男だ。何日か前に連絡をよこしたよ。昔、心臓の手術をした子供が成長して、患者として現れたとな。何、ただの思い出話だ」

「おれの──頭の話はしたのかな。その、脳の、ありもしない病気」

「──まあ、な。こっちへ寄越すように言ったかもな。この診療所はそれほど金にならん」

 おれは頭を抱えた。ファビオはドレイク先生からその話を聞いて、おれを探し、アンダージュノンに送ろうとした。そのためにヘリを手に入れようとして死んでしまった。

「ユージン先生。話してくれて良かったよ」

 ツォンがよくようのない声で言った。おれはリノリウムの床を見つめながら、このまま帰るわけにはいかない、しかし、どうしてくれようなどと考えていた。その時、ガラスや金属がぶつかり合い、割れるけたたましい音がした。顔を上げると、医者が椅子から崩れ落ちるところだった。ツォンが殴ったか何かしたらしい。

「な、何を──」

 医者のおびえた声がした。その後、ツォンの靴が人間の身体に食い込む鈍い音がした。何度も、何度も。低いうめき声が聞こえた。そして、その苦しげな声に、おれは、喜びを感じていることに気づいた。背筋がゾッとした。ここはおれがいるべき世界ではない。母さんが信じた世界ではない。もういい。止めてくれ。ツォンの背中に、おれは叫んだ。

「ルードに送らせる。出て行け」

 おれはこそこそと病院を出ようとして思い出し、ジェノバらしきものを目撃して、それをあの雪原の下を流れるライフストリームの中に落としたことを報告した。そうする義務があるような気がしていた。

「そうか」

 ツォンはそう言ったきり、黙り込んだ。おれは、医者の命乞いを背中で聞きながら診療所を出た。


*  *


 タークスが留守にしている間に、れいはほぼ完成していた。タークス、あるいは、村長という監督不在でも、ボランティアたちは着実に作業を進めていたらしい。彼らは、しんにすがって生きようとする弱者などではなかった。慰霊碑のしゅに賛同して集まった、意志と能力のある個人だったというわけだ。

 ボランティアたちをねぎらうレノとルードに別れを告げ、おれたちはドレイク先生の診療所へ行った。診療所にはドレイク先生に世話になった人々が集まり、看護をしていた。先生は血まみれで倒れているところを尋ねてきた患者に発見されたそうだ。自分で止血をした上に、ほうごうの準備をした形跡まであったらしい。ドレイク先生はすごい。治療にはエッジ中の医者が集まり、その結果、重傷ではあるけれど命は取り留めたと聞いて、おれは心の底から安心した。


 おれはとりあえず、ファビオの家に落ち着いて、ビッツと二人で暮らすことになった。おれの家はレズリーとマールが使っていたし、元の部屋の方がビッツのために良いのではないかと、仲間たちと相談して決めたのだ。兄を亡くしたビッツの落ち込みようは深刻なもので、せいこんの症状も相変わらず。この子まで死んでしまうのではないかと心配だった。そんな中、キリエはほぼ毎日、訪ねて来ていた。ビッツが帰らないでくれとねだると、そのまま泊まっていった。何日もしないうちに、彼女は大きなかばんに衣類を詰め込んでやって来て、それから、自分の家へは、たまに帰るだけになった。グリーン一色だった部屋に、賑やかな色が混じり始めた。

 ある日、高熱にうなされていたビッツが、いきなり明瞭な声で、スラムの教会へ行くと言いだした。突然降り出した雨の中、外に出ようとするビッツをなだめながら、おれとキリエはほうに暮れていた。夕方近くになり、レズリーが、スラムの教会にできた奇跡の泉へ行けば星痕が治るという、信じがたい情報を仕入れて訪ねてきた。教会は情報を聞きつけた人々でごった返しているらしい。おれたちは半信半疑のまま、ビッツを背負ってスラムへ向かった。雨はあがっていた。


 途中、中央広場を通った。慰霊碑は破壊され、無くなっていた。広場を中心に事件──しょうかんじゅうと呼ばれるモンスターが慰霊碑や建設中のビルを破壊してしまった──が、あったらしい。まったく気がつかなかった。広場は人であふれていたが、タークスの姿は見えなかった。あんと失望が入り交じった複雑な感情に、おれは揺れた。別れの日、アンダージュノンでツォンが見せた残忍さは、レノやルード、イリーナの中にもあるに違いない。時に楽しく、本当の友人のように思えることがあった。いや、友人だった瞬間もあっただろう。また、会いたいとも思う。ただし、今すぐにではない。彼らの怖さに対抗できる強さを、おれは、身につけなければならない。ビッツ、そしてもちろん、キリエといることで、それは可能だと、今は思える。

「また会えるかな?」

 キリエがかつて慰霊碑があった場所を見て言った。

「会いたいのか?」

「もちろん。思い出すと、いろいろ腹が立っちゃって。言わないと気が済まない」

 うん。キリエは強い。さすが。

「神羅と仲良くしちゃダメだ」

 背中のビッツが言った。

「ああ、わかってる」

 今はそう応えるしかない。神羅カンパニーへの憎しみを隠そうとしないビッツとは、いつか、じっくり話す必要がある。おれと神羅の関係を考えると、事がすんなり進むとは思えなかった。しかし、信じよう。わかり合える日は、きっと来るはずだ。


*  *


 教会の周辺は喜びと期待に満ちあふれていた。おれたちは順番待ちの列に並んで待った。建物の中から歓声が聞こえてくる。その時、エヴァンと、おれを呼ぶ声がした。

「ああ、ストライフ・デリバリー・サービス!」

 おれは思わず大きな声をあげた。

「いや、ごめん。クラウドだよな。もちろん、覚えてる」

「その子は、星痕か?」

「うん、そうなんだ」

「教会で治るんだろ?」

 ビッツがクラウドに確認する。

「ああ、治る」

「ほら、だからおれは言ったのに。エヴァンもキリエも信じないんだ」

 ビッツがクラウドに訴える。

「それはひどいな」

 クラウドの表情が緩む。穏やかな笑顔だった。そしておれを見る。

「ニブルヘイムへは行ったのか?」

「ああ、おかげさまでね」

「あんたには無理だと思っていた。悪かったな」

「そういうことは、言わなきゃわかんないんだよ」

 ビッツが大人びた口調で言った。するとクラウドは、覚えておこうと言って、また微笑んだ。

「死んだ兄ちゃんも、そんなところがあったな」

 クラウドがげんな顔をする。

「ああ、おれの背中の、星痕とは思えないほど元気なのはビッツ。友達の弟なんだ」

「そうか」

「こっちはキリエ」と、ビッツが紹介する。「エヴァンのカノジョなんだ」

「違いまーす」キリエが楽しそうに否定した。おれは真意がわからず、キリエを見る。するとクラウドに向かって──

「わたしたち、もう家族なの。血は繋がっていないけど家族」

「クラウド、帰ろう!」

 子供の声がクラウドを呼んだ。金髪の少年だ。歳はビッツと同じくらいだろう。

「ああ、きみは、デンゼルだな!」確信があった。「電話で話したことあるんだけど──そんなの、覚えてないか」

「──うん。ごめんなさい」

 人見知りなのか、デンゼルはクラウドの後ろに隠れてしまう。

「あっ、探偵の人たち! エヴァンさんとキリエさん」

 次は女の子の声。マリンだった。店の外で見るマリンは、まるっきりただの子供で、それがおかしかった。

「こんにちは」

 続いてティファが現れた。

「ああ、どうも」

 なんとなく気恥ずかしさを感じながら、口ごもると、キリエがおれにぴたりとくっついてくる。ティファが、冷やかすような目でおれを見た。

「いろいろ聞きたいな。また店に来てね」

 おれとキリエのふたりにバランス良く笑顔を配分して、言った。

「あ、でもね、今日はダメなの」マリンが口を挟む。「貸し切りなんだ。マリンの父ちゃんが店のお酒全部飲んじゃうって」

 マリンの父ちゃん? おれは不思議そうな顔をしたのだろう。ずっと黙っていたクラウドが口を開く。

「血は繋がっていないけど、家族。そっちと同じだ」

「じゃあ、またね」マリンが子供らしい性急さを発揮して別れを告げ、クラウドの手を引っ張った。クラウドはおれたちにじゃあなと目で語りかけると、マリンに身を任せ、背を向けた。

「今日は特別なんだよ。なんと、ヴィンセントも来るんだって」

 マリンがクラウドに報告する。クラウドが、それは驚きだな、と応えるのが聞こえた。

「ねえ、エヴァン。今のヴィンセントって──」

 ヴィンセント。母の手紙にあった名前だ。

「うん。でも、珍しくない名前なのかも」

「後で確かめに行ってみない?」

「でも、貸し切りだって」

「押しかけちゃえばいいじゃない。先延ばしにして無くしちゃったチャンス、数えたことある?」


*  *


 教会の中心付近の床に大きな穴が開き、水がたまっていた。なるほど、泉だ。水は透き通っていたが、何故か底は見えなかった。どれほど深いのか見当がつかなかったので、おれはビッツの両脇に手を差し込むとしっかりと支え、ゆっくりと水に入れた。おれの手もれた。その時、ああ、これは治る、と思った。目の前で、ビッツの星痕は跡形もなく消えてしまった。

「すげえ! エヴァン、キリエ、見て! ねえ、エヴァン、上げてくれよ」

 水から引き揚げて床板の上に立たせると、ビッツは自分のシャツをまくりあげて背中を見せた。

「完璧!」

 周囲にいた大勢の人々を縫うように、完璧! と連呼しながらビッツは走り回る。

「なあ、キリエ。触ってみろよ」

 おれは泉の水でまだ濡れている右手を差し出す。キリエが触れる。彼女は両眉を上げて目を見開くと、泉の前にしゃがみ、手を差し入れる。

「これ、ライフストリーム──」


*  *


 おれたちはビッツをレズリーたちにまかせて、ミレイユ探偵事務所にいた。ふたりで、キリエの部屋のベッドに入り、毛布にくるまっていた。壁にはおれの新しいジャケットが掛かっている。柔らかい素材でできた、シンプルなジャケットだ。

「えへへ」

 キリエはうれしそうに枕元から手紙を取り出す。もう何度も読んだのに、また読むつもりらしい。手紙はタイラン・アールド氏からのもので、息子のグールド・アールドから連絡があり、近々再会することになったと記されていた。そして、ミレイユ探偵社に対する感謝と、ねぎらいの言葉。少なくはない金と一緒に、ドアの隙間から中に押し込んであったものだ。

「連絡くださいって。ご飯おごってくれるみたい」

「代金もらって、その上、おごってもらうのか? 図々しくないかな」

「それほどアールドさんはうれしいってことでしょ? 楽しいことはみんなで分ける!」

「じゃあ、そのうちな」

「もう、電話しちゃった」

「早っ」

「明日のお昼。ビッツも一緒でいいって」

「わかった」

 おれたちはアイシクルロッジでツォンから借りた携帯電話を、まだ返していなかった。向こうは何も言ってこなかったが、キリエに持たせておくのは危険かもしれない。

「それから、実はね、レノにも連絡したんだ。アイシクルロッジにいたよ」

 おれは驚き、上半身を起こす。キリエが抗議しながら毛布を自分の身体に引き寄せる。

「どうして?」

「そんなに驚かないで。きっと、村のこと、いろいろ手伝ってるんじゃないかな」

「そうじゃなくて、どうして連絡したんだ?」

「──あのね、レノとルードが初めてあなたのところへ来た日って、誕生日だったでしょ?」

「ああ」

「わたし、ちゃんと覚えていたのに、いろいろあって、おめでとうも言えなかった。だから、あらためて、パーティーなんかできたらなって」

「それにタークスを呼ぶつもりだった?」

「タークスっていうか、お兄さん。エヴァンの」

「──そんなこと、よく思いついたな、キリエ」

「レノ、喜んでたよ。それから、折り返し、電話が来たの。なんと、お兄さん本人から」

「お兄さんって、やめろよ。ピンと来ない。で、なんだって?」

「面倒だから、欠席だって」

「だろうな」

「でね、こう言ってた。うらやましくなんかないからな、だって。どういう意味かな」


 腹がひくひくして、笑いが込みあげてきた。そのうち、会いに行くのもいいかもしれない──と、おれは思った。